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[写真の物語:写真−物語−言説/PHYLO NETWORK #0/1992年8月刊]


「写真の物語:写真−物語−言説」
 写真の機能とは何か。このことを考えようとするとき、私たちはある一つの単純な規定を念頭に置いているように思われる。写真とは現実を再現するものであること、あるいは、現実を視覚的に写し出すものであること。しかし他方、写真をめぐる言説は、この規定を拒み続けることで、その歴史を刻んできたと考えられよう。写真をめぐる言説は、この規定を写真のもっとも重要な機能としてつねに掲げてきたが、その一方で、それを写真独自の表現としてそのまま受け入れたことはなかった。スーザン・ソンタグはこういっている。「自己表現の優れた手段としての写真の擁護と、自己を現実の奉仕に委ねる優れた手段としての写真の賛美の間には見かけほどの違いはない。両方とも写真は暴露の独自の制度を供すること、つまり現実を、私たちがそれまで見たこともなかったふうに見せてくれることを前提としているのである」。
 このことから引き出されるのは、写真の機能の規定において措定されている現実と、志向されあるいは語られている現実は、けっして同じ位相に属するものではなく、むしろ対立しあうものとして、二重化されているということである。端的にいえば、措定される現実とは、写真行為におけるいっさいの現実の構成に先立つものであり、写真の機能の外にある、差異なき純粋な同一性の世界である。これに対して、志向され語られる現実とは、自らのアナロジーとして外界の諸々のもののなかに見出されたものであり、すべてかならず何らかの象徴化の操作を経た象徴的・想像的な世界である。先の引用に重ねて、ソンタグはこう述べている。「写真がいうところのリアリズムのイデオロギーは、世界との関係で自我の抹消を命令することもあれば、自我を賛美して世界に攻撃をしかける関係を正当と認めることもある。その関係のどちらか一方の立場がつねに再発見され、擁護されている」。
 ところで、あらゆる歴史/言説は、出来事−コンテクスト−時間系列という要件を備えた言語行為=物語として成り立っている。むろん写真をめぐる言説や写真行為もまた、このような事情の外で成立しているわけではない。すると、写真における言語行為=物語とは、写真的体験を解釈可能なものへと変化させる言説化の操作にほかならないだろう。そして、このようにして考えるとき、物語の射程は虚構のみならず、現実的なものの領域にも及び、歴史性をも包括するものとして浮び上ってくる。ここから、はじめにあげた、現実を再現する、あるいは現実を視覚的に写し出すという、いっけん単純にみえる写真の機能の規定をみるならば、そこにはまったく位相の異なった二つの現実の混同と混乱が含まれていることがいっそう明らかになってくるだろう。差異なき同一性の世界としての、措定される現実とは、その定義からして解釈不可能な現実であり、視像的な世界をいっさい持ち合わせてはいない。これに反して、写真において視覚的に写し出される現実とは定義上、視像的なものであることは明白である。現実を視覚的に写し出すという規定において、写真は措定される現実を自己の反映=同一性として先取りしようとする。しかし、措定される現実とは存在様式以前のものであり、この先取りの過程において生じるのは、写真行為における志向性や語りそのものをも包括し、措定される現実を排除した現実なのである。例えばこの意味で、しばしば解釈不可能な現実に属するものとして語られる写真そのものとは、写真行為や写真の機能が届く契機をいっさい持ち合わせていない空洞、もしくは根源的な非=写真行為の位相に属するものであり、これを語ろうとする語りは、かならずどこかで表現以前の隔たりを表現上の矛盾に擦り変える超越論的操作を施していることになろう。
 今日、写真の物語という項目のもとで考えられなければならないのは、写真そのものと写真の物語、あるいは絶対的現実と写真的物語という分節における差異と同一性ではなく、ましてや物語と虚構、物語と現実といった構図でもない。そうではなく、措定される現実を写真が排除する操作の過程としての写真の言説化の位相、そして、この過程を言語行為=物語として構成する写真の自己反映的な関係性そのものを、写真の物語性として思考することこそが求められているのである。

 私たちは、写真に見ているものについて語るのではなく、写真について語ることを見るのでもない。この非対称性における矛盾は、写真の直接性・明証性ということ、あるいは写真について語ることがけっして写真に届かないながらも写真の制度を形作ることとして、これまでに幾度も指摘されている。このような認識はつまるところ、どのように写真について語ろうとも、語ることのなかに写真を封じ込めることはできないのだという実感=気分を私たちに与えているように思われる。しかし、このことが写真の独自性として語られると同時にその矛盾が空洞化され、このような実感=気分に写真をめぐる実践が封じ込められているのは、いささか奇妙な転倒だといえないだろうか。
 このPHYLO PHOTOGRAPHS ANNUAL 1991/1992は、写真の言説化の問題、そして、作ること・見ること・語ることの諸相における写真の物語性の問題をめぐって作られている。ここでは、複数のフレームの併存という形態から、現実化と差異化における他の何ものにも還元しえない性格を引き出している笹谷高弘と伊藤義彦の作品が、この問いの提起の重要な契機としてとりあげられている。だが、これにとどまらず、このような問いの様々な位相は、ここに収められたすべての作品と文章からも見出されるであろう。
 写真を作ること・見ること・語ることの非対称性における矛盾を、それらの営為が交錯する写真表現の実践のさなかで、写真の物語化、言説化におけるそれとして考えてみることによって、写真の自己反映的な関係性そのものを問いの爼上にのせてみること。つまり、矛盾を不可避的な曖昧さとして見つめるのではなく、矛盾が生産される場面、さらには矛盾を作り出すことそのものに実践を傾けてみること。本書を規定すると同時に、その動機を形作っているのはこの試みにほかならない。