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[再現、類似、フレーム/PHYLO PHOTOGRAPHS ANNUAL 1991/1992/1992年8月刊:34-39]


 笹谷高弘と伊藤義彦の作品に共通する、誰の目から見ても明らかな点とは、複数のフレームが併存することから作品が作られていることである。複数のフレームという形態は、しばしば単純な効果としてのみ捉えられがちだが、写真表現の諸項目に立ち返って見直すならば、思いのほか重要な視座を孕んだものとして浮かび上がってくる。とりわけ、写真を読み・語ることの自明性を拒み、明確さを保障する空間としての写真表現を退けることによって今日的写真表現が規定されていることを踏まえるとき、この複数のフレームという形態は、写真をめぐる諸々の実践をこれまでと違った観点から見直すことを要請しているように思われる。

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 写真は抽象物にすぎない。と同時に、それは常に具象的である。誰しも写真に写された物についてあれこれと具体的に語ることができる反面、写真を規定してみようとすると抽象的にしか語りえない。たとえば写真に写された木について語っているとき、写真の中の木は常に具体的であるだろう。だが、同時にその木はまさに写真の中の木でしかない。それゆえ、それについて語るとき、私たちは必ずある種の抽象化・象徴化をおこなっている。つまり写真とは、実体を再現するという意味で視覚的形姿であり、現前を再構成する性質を備えたものである。
 ここにまずはじめの混合が確認されるだろう。現前の再構成としての写真、それは、それが象徴するものより常に少ない何かであるが、それ自身より常に多い何かを含み、示唆するものである。この具象的なのものと抽象化との混合は、単純な視覚的形姿の類似から政治・理念の象徴に至るまでの様々な位相で、写真の象徴化、象徴としての写真として現れる。現前の再構成という写真の性質を踏まえるとき、この混合は不可避的である。そしてこの不可避性を考えるとき、第二の混合が浮かび上がってくる。それは実体の再現、現前の再構成という写真の性質そのものに含まれた、現れた実体を再び現すことにおける質的に異なる現前の混合である。この第二の混合は、現前を再構成するとともに写真自らが現前する位相や割合に応じて、はじめの混合を照し出す。逆にいえば、はじめの混合はこの第二の混合に基づいている。
 抽象化・象徴化に先立って具体的・実体的なものがあり、現前の再構成に先立って実体の現前があるというふうに写真を捉えるとき、私たちは、はじめの具象的なものと抽象化の混合を、実在に遡れば分離可能で、その意味で対立的であり相対的なものと考える。そう考えるとき、第二の混合における実在の現前と現前の再構成は、可能的に一致しうるものとして描かれ、はじめの混合の対立を相対的なものとして照し出すことでその可能性自体を保障している。つまりここでは、写真の抽象性は一致の可能性を支えるものであり、それによって質的に異なる現前はその差異を解消しうる、またそうであるがゆえに解消されてはならない矛盾として写真に力を与えるだろう。
 この力は何に作用するのだろうか。おそらくは、写真そのものの現前を現前としての実在の内に透明化し、これらの混合における混乱を抑圧することにである。なぜならこういった認識における写真とは、現前としての実在から恣意的に抽出された、実在的なものからの抽象として捉えられ、そこでの実在の現前と現前の再構成の可能的な一致は、実在の現前を描くとともに、写真の実在性の欠如としてその機能の限定を導き出すものだからである。

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 こういったことは、写真の最も重要な機能は現実(実在)を忠実に再現することであるという、すでに数知れぬほどの写真を語る者が指摘してきた定式に照し合わせて考えてみると、より明らかになるかもしれない。
 いわば自明化されている写真の機能についてのこの定式には、すでに相反する規定が孕まれている。それは、写真がどれほど忠実に現実を写そうと、いかに現実を生々しく現そうと、もしそれが完全に現実の複製であったなら、それは現実そのものであり、もはや写真とは呼ばれないだろうということである。つまり、一方で、写真は現実を忠実に再現することによって写真として規定されるが、他方、写真が写真であるためにはそれゆえ、どこかでそれ自身が実在と区別されなければならない。そしてここでもまた問題となるのは、再現という項目が、現前を再構成するとともに写真自らが現前することの対立を含み込み、両者の質的な差異の解消とその力としての矛盾の形態を形作っていることである。
 たとえばこの再現という項目が、模倣と独自性という対立において捉えられる場合を考えてみよう。もし写真の模倣性の優位を再現の性格として規定するならば、写真の独自性はその内に否定的に位置づけられ、そこでの矛盾はその規定を現実の優位において支える力となるだろう。逆の場合、写真の模倣性が否定的にその独自性の内に位置づけられるときも、また同様である。いずれの場合も、再現という項目の性格づけの中で、実体の現前と現前の再構成が、写真あるいは現実という項目の内に恣意的に混合され、質的に異なる現前はその差異を解消しうる、またそうであるがゆえに解消されてはならない対立として相対化され、否定的に保存されているのである。

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 質的な差異における矛盾を対立する項目に置き換え、否定性を媒介にその性質を恣意的に混合し、実体の現前と現前の再構成の可能的な一致を描き出す、再現という項目におけるこのような認識は、類似という観点から写真の近代性を考えてみるとき、いっそう興味深い問題を提供してくれるかもしれない。なぜならこういった認識において実在的なものからの抽象として捉えられた写真とは、実在性の欠如としてその機能が限定されるとともに、可能的な一致と実在のあいだの類似によって規定され、再現という項目を機制するものだからである。
 写真の近代性は、なによりもまず自らが現前することを独自性として組織することに見出せるだろう。写真がそれ自身を対象化するここでは、現前の再構成は自らの現前に織り込まれ、現前の再構成と自らの現前の混合の位相は、写真それ自身の現前として再び現されることになる。つまり、再現=表象と実在の類似は、具体的視覚的形姿としての写真と現前としての写真という抽象物の類似によって機制され、それによって類似そのものの限定がここから導き出される。いいかえれば、ここでの類似による機制と類似の限定によって編まれる類似の位階関係の独特性が、写真の独自性であり近代性にほかならない。ここでの独特性とは、写真が孕む異なる性質の現前が、写真それ自身の類似によって混合されることによって、可能的にすべての実在を写しだすことを描くこと、そして写真が実在の欠如として否定的に位置づけられることによって、現実を実体の現前と現前の再構成の恣意的な混合の割合として機制すること、さらにこのような機制によって写真を現実と対立的に実在化することである。
 端的にいうならば、こういうことだ。写真は、再現=表象の類似の位階関係にしたがって、あらゆる実在を現実という領野へと写しだしうることを可能的に描くことによって、はじめてその近代性を形成し獲得したのである。このような類似とその限定における位階関係は、写真の実在化、写真表現の空間化を促すだろう。質的な差異における諸々の混合は、位階関係に基づいて相対化され、空間化された写真として提起される。ここでの写真とは混合の相対化によって質的な差異の混乱を抑圧し、その限りにおいて空間化され、実在としての明確さが保障されたものになる。この空間は同時に、写真を作り・読み・語ることの自明性を保障するものでもある。

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 このようなことを踏まえたとき、読み・語ることの自明性を拒むこと、明確さを保障する空間としての写真表現を退け、質的な差異における諸々の混合を混乱として提起すること、つまり具象的なものと抽象物との混合における混乱が写真それ自身の現前として提起される転回によって今日的写真表現が規定されていることの重要性が浮かび上がってくる。と同時に、ここではじめて、笹谷、伊藤の作品におけるフレームという問題の重要性について考えることができるだろう。
 近代的写真の空間において、フレームとは写真の実在化に属する項目として捉えられる。そこでのフレームの機能とは、写真自らが現前する位置を機制し、現実と写真といった対立を内部/外部の相対的な明確化によって空間化することであった。これに対して、複数のフレームが作品に併存することが方法として用いられることは、質的な差異における諸々の混合を混乱そのものとして提起することによって、実在化から実在化の条件へと問題を転回させる。つまりここでの方法とは、空間化された問題を、複数のフレームによって時間化された問題へと移行させるものである。
 実在の現前と現前の再構成の可能的な一致が想定されるためには、抽象化・象徴化に先立って具体的・実体的なものがあり、現前の再構成に先立って実体の現前があることが描かれなければならなかった。しかし、現実的な場面に、つまり私たちが写真を実践している現実性に立ち返るならば、ここにすでに混合の相対化とその質的な差異の解消がみてとれる。というのは、私たちが具体的・実体的なものを想起するのは抽象化・象徴化においてであり、実体の現前を想起するのはまさしく現前の再構成における混合のさなかであるからだ。実在の現前と現前の再構成の可能的な一致は、具象的なものと抽象化の混合を実在に遡れば分離可能なものと転倒させることによって、異なった位相における時間を空間化し、その表象として写真を規定する。だが、抽象化・象徴化においてのみ具体的・実体的なものが見出されることを考えるならば、このような遡行がいささかも現実性をもっていないことは明らかだろう。誰しも写真における抽象化・象徴化に先立って、そこで想定される実在をあらかじめ捉えることなどできないからである。
 複数のフレームが時間という問題において提起するのは、類似と限定によって形成された空間における矛盾を、現実化と差異化の線に従って写真の実践の諸相、とりわけ作ることの位相として展開することである。複数のフレームが併存することが方法的に用いられることによって、現前の再構成としての写真は、自らの現前に、空間的に織り込まれるのではなく、時間的に織り込まれる。複数のフレームが同時に提示されるとき、そこで提起されるのは、写真の現実化としての撮ることの複数性であり、それが反復としての見ることによって差異化されることが現前の再構成と自らの現前の間で絶えず照し合わされる様相である。複数のフレーム、このような意味でのフレームとは、写真の実在化に属する項目ではなく、現実化と差異化を絶えず照し出す潜在性として規定されるだろう。

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 笹谷高弘におけるフレームの複数化という方法は、実在の現前と現前の再構成の可能的な一致において想定される、空間の分割可能性そのものの提示からはじまる。空間の分割可能性そのものを写真の複数的な実在化として再構成すること、このことからは二重の契機が導き出されるだろう。ここでの撮ることは、写真の複数的な実在化の再構成であると同時に写真それ自体の現前を現実化の契機として位置づけることである。そして他方見ることは、写真それ自体の現前における現前の再構成として、抽象化・象徴化を可能的な一致ではなく、差異化の線へと結び付ける契機となることによって、現実化の契機としての撮ることに自らの契機を照合させる。
 この二重化された作ることにおいて、現実化と差異化の二つの契機は、現れた実体を再び現すことにおける異なる現前の混合を、混乱の固有の線として描く。ここでの混合における矛盾が力として作用するのは、逆に、実在の現前と現前の再構成の可能的な一致を抑圧することに対してである。なぜなら、その都度の行為として位置づけられる撮ることは、写真それ自体の現前の契機ではあっても、その空間化には行為を押し広めず、同じ様に、見ることはそこでの写真それ自体の現前を行為の起点としながらも、常に現前の再構成に向けて働き、現実化としての撮ることに自らを照し出すことによって、それぞれの性格を強化するからである。
 空間の分割可能性そのものの提示からはじまった笹谷の方法は、方法の契機そのものを強化することによって、空間の分割可能性そのものにおける恣意的な混合を対象化するに至る。笹谷が等質な対象を選び、また、フレームの複数化のなかで対象の等質性を強調するのはこのためである。写真の現実化としての撮ることはその固有の性格をこの等質性によって強化し、それによって見ることはこの等質性に現実化の固有性としての類似を見出し、自らの性格を方向づけるのである。
 これに対して伊藤義彦は、フレームの複数化によって、空間化された時間を実在の現前と現前の再構成の可能的な一致から切り離し、過去と現在という時間性における差異を提示しているように思われる。実在の現前と現前の再構成の可能的な一致とは、実在の現前と現前の再構成の時間性の連続性に基づいた可能的な空間化でもあった。ここでのフレームの複数化という方法は、連続性として空間化された時間を、写真の現実化の契機へと送り返すことにまず用いられるだろう。
 時間の連続性・空間化そのものを対象化することによって照し出されるのは、写真の現実化の契機において時間は常に二つの方向に差異化していることである。写真の現実化としての現前の再構成は、実在の現前を過去として、写真それ自体の現前を現在として二重化する。これらの混合が恣意的になされうるのは、それらの可能的な一致が描く空間が前提とされているからである。だが写真の現実化の契機が、絶えず時間の二つの方向へと向けられるならば、強調されるのは二重化そのものにおける差異にほかならない。
 伊藤にとっての撮ることにおけるフレームの複数化という方法は、現前の再構成を写真の現実化としての位置づけることであると同時に、見ることにおける写真それ自体の現前と照合することによって、二重化された時間に沿って、撮ることと見ることの契機の二重性そのものの分化の強化として規定されるに至るだろう。そこでは、写真それ自体の現前における抽象化・象徴化から、視覚的形姿における実在の現前との類似まで、空間化された時間の連続性そのものが、写真の現実化の契機へと送り返され、現前の再構成における差異化の線を強化すると同時に、そこでの混乱の固有性は、時間の二重化の固有性として写真の現実化の契機そのものを照し出す。

 笹谷、伊藤の作品における複数のフレームの併存という形態はこのように、質的にそしてとりわけ潜在的に、それぞれの作品を決定づけているとともに、作品のそして写真をめぐる諸々の実践の位相に、現実化と差異化における他の何ものにも還元しえない性格を与えている。しかし、私たちはこのような確認にとどまるべきだろうか。
 ここで見合わなければならないのは、こういった作品を読み・語り言説化するときになお、混乱の固有性に明確さとしての写真の実在性を求めたり、あるいはその逆に写真の実在性の明確さによって混乱の固有性を規定する事態が生じていることであろう。つまりここでは、実在化から実在化の条件へと問題が転回されたことによって、ここ二十年来の写真表現が規定されていることが惰性化し、「写真は写真である」という認識論的に検討されることによって存在論的に照し出されるべき断言が、存在論的な否定性によって認識論的問題に照し出されることによって、存在論的な空洞を招く混合が起こっているのである。
 だとすれば、笹谷高弘と伊藤義彦の作品における潜在性としてのフレームを、写真をめぐる諸々の実践によって、このような事態を明らかにする場面へ、さらにはそれを根底的に変形させる場面へといっそう近づけること、そのような場面を現実的な日程に組み込むことこそが私たちの課題にほかならないのではないだろうか。