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[afterword/PHYLO PHOTOGRAPHS ANNUAL 1991/1992/1992年8月刊:111]


 三冊目の「PHYLO PHOTOGRAPHS ANNUAL」として出される本書は、写真の物語性、言説性といった、写真を作ること・見ること・語ることの諸相をめぐる試みとして作られている。写真はいかにして自らを語るのか、写真はどのようにして語られうるのか、さらに、作ること・見ること・語ることのいかなる場面から写真は見出されるのか、こういった問いの提起が本書では企てられている。その重要な契機としてとりあげられた笹谷高弘と伊藤義彦の作品においてはもとより、このような問いの様々な位相は、ここに収められたすべての作品と文章からも見出されるはずである。
 だが、なぜ、こうした問いがこのような形で提出されなければなかったのか。このことについて、二つの側面から簡潔に述べておきたい。
 私たちは、写真に見ているものについて語るのではなく、写真について語ることを見るのでもない。この非対称性における矛盾は、写真の直接性・明証性ということ、あるいは写真について語ることがけっして写真に届かないながらも写真の制度を形作ることとして、これまでに幾度も指摘されている。このような認識はつまるところ、どのように写真について語ろうとも、写真を語ることのなかに封じ込めることはできないのだという実感=気分を私たちに与えているように思われる。
 しかし、このことが写真の独特性にのみ転嫁され、逆に、このような実感=気分に写真をめぐる実践が封じ込められているのはなぜなのだろうか。写真を作ること・見ること・語ることの非対称性における矛盾とは、それらの営為が交錯する写真表現の実践のさなかで、写真の物語化、言説化におけるそれとして考えられなければ、なんら具体性を持たないだろう。つまり、矛盾を不可避的な曖昧さとして見つめるのではなく、矛盾が生産される場面、さらには矛盾を作り出すことそのものに実践を傾けてみること。このことが本書における問いの動機を形作ると同時に、本書そのものを規定している。
 他方、このような提起の形は、写真表現の今日に照し合わせて充分なものだろうかと問うこともまた可能である。しかし、この問いもまた実践的に発せられるのでなければ、私たちを具体的な場面から遠ざけるにすぎないのではないだろうか。そして、ここでいえることは、「PHYLO PHOTOGRAPHS ANNUAL」という形態の性格は、本書によって、本書を含むこれまでの三冊によって、すでに具体的に示されているということにつきるだろう。