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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる12:写真家という存在1/日本カメラ1992年12月号:140]


 写真家という見る存在を、主体と客体という関係から考えるとき、主体としての写真家が一方的に受動的になることを選びとり、しかし、その受け身に徹することによって、客体の様相を十全に吸収し提示しうること、つまり、外界のものが内界としての写真家へ食い込み、食い込むことによって事/物の正体を明らかにしうるのだと、一般的に思われがちである。
 だが、前回述べたように、存在するのはたんに見ているという視覚的場面の状況のみである以上、何かを見る写真家をそのような存在として規定するのはおよそ不可能であり、ゆえに写真家という存在は、名詞によって外から指示される客観性によってしか規定されえず、したがって写真家は客体として以外は成立しえない。
 では、このような写真家とは、いかなる存在なのだろうか。
 それは、端的にいって、歴史的資料に基づいた恣意的な存在であると考えられるだろう。それゆえ、ここで問題になってくるのは、つねにあるイデオロギーの表明をしなくてはならない、写真家という存在についてである。いかなる作品や資料をかきあつめたところで、現実の作者を手に入れることは不可能である。また、百年前と五十年前と現在とで、ある作者がまったく同じ写真家という概念によって捉えられてきた不動の存在であったことなど考え難い。しかし、にもかかわらず、写真家=作家という概念が必要であるとするなら、それはイデオロギーとしての写真家=作家の他にはありえはしない。
 むろんここで考えているのは、写真家が意識的にある理念を表明することや、写真家がそれと気づかず無意識的に抱いている価値判断といったもの、つまりは写真家の自意識すべてをイデオロギーとして捉え、そこから写真家という存在を描き出すことではない。そうではなく、それとは逆に、ここで指摘しようとしているのは、感情や価値、認識や理念といった項目における諸々の様式が、写真というひとつのカテゴリーの力の維持と再生に結びつく、何らかの特有な力の形態をイデオロギーと考えるなら、その最も主要な結び目は写真家という存在にほかならないだろうということである。
 とりわけ近年、多くの論者が指摘しているように、ある写真をめぐって多様な解釈がなされることは確かに可能であろう。だがそれは、少なくとも現時点においてはあくまでも可能性にとどまる話であり、現状の写真論を見渡せばすぐにわかるように、実際には写真というカテゴリーにおける解釈は、ある特有な力の審級と機制にしたがって成り立っているといってよい。そして、多様な解釈という可能性の歯止めとして働いているのが、このイデオロギーとしての写真家という存在なのである。もちろん今日、作者の意図が自作に対する解釈すべてを支配すると考える者など誰もいないだろう。そして、だからこそ、現実的でありかつ隠喩的・象徴的な写真家という存在が、ともすれば分散してしまう写真をめぐる解釈の結節点として必要とされるのである。
 写真をめぐって多くの者が読み/語り続ける。むろん、ここには写真家の自らの写真行為に対する語りも含まれるだろう。そしてそこに生じるであろう、いっけん解決不可能な矛盾や対立、諸々の葛藤をまるごと飲み込み、写真というカテゴリーの力へと溶解させる存在を、写真家という存在の他に考えることができるだろうか。このような意味における写真家=作家とは、写真にまつわるすべての出来事に対して超越的な存在にほかならない。写真家という存在は、作者−作品という構図に偏在しているわけではない。それは、写真史や写真評論、写真研究といった写真をめぐる言説から、私たちが普段なにげなく行っている写真をめぐる語りに至るまで、まさに制度として遍在している。
 80年代の写真表現を彩る矛盾を一言でいうならば、写真の歴史を組み立てることによって写真表現の自足性・自立性を獲得しながら、それと同時に、写真表現をめぐる裾野を拡げようとしたこと、つまり専門化と大衆化との矛盾である。いいかえればそれは、一方で近代性を渇望しながら、他方で近代性をめぐる諸々の項目を嘲笑するという身振りである。このような状況において、写真家の意図を自在に代弁する評論、そして作品は自由に読まれればよいといったことをことさらに強調して語る写真家といったものが登場してくる。ここで、読みの多様化・写真の快楽の享受といった語りとともに行われたことは、解釈そのものの不可能を告げる存在としての写真家に、諸々の解釈を埋め込み溶解させるという解釈によって、写真の読解をめぐる対立や係争を揚棄し回避することだったといってよい。
 作家としての制度性の苦悩を軽々と自ら語る写真家、写真の制度をやすやすと乗り越え写真家という存在を語る評論、こういった行為のさなかで、こういった行為に超越的に、イデオロギーとしての写真家が今日とりわけ強固に存在している以上、写真家という存在における問題は、いささかも古びたものではありえない。そして、このような回避の繰り返しを切断する地点を写真家という存在の内に作り出すことすら揚棄してしまうなら、私たちは私たち自身が属する写真の今日性をけっして理解することも生産することもないだろう。