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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる11:写真家という存在1/日本カメラ1992年11月号:136]


 その誕生から今日に至るまで、写真は様々な場面で、見ることのアナロジーによって捉えられてきた。写真行為や写真家という存在にしてもまた同様であろう。
 例えば、写真行為そのものが問い返されたといわれる70年代には、「見る−見られる関係」という構図によって頻繁に写真が語られている。そして、たとえその言説が、撮る−撮られるという構図との単純な符合を拒み、写真を「見る−見られる関係」という両義性から捉え返そうとしたものだとしても、写真や写真行為を見ることのアナロジーとして規定していることに変わりはない。それゆえ、またこの言説は、いかに撮る=見るという符合から写真家を規定することを退けていたとしても、見ることのなかで写真家を規定することをいっそう強化したといってよい。眼、眼差し、見る欲望といったボキャブラリーが、写真家の行為を形容する言葉として今日でも流布していることは、その証しでもある。
 だが、写真家という存在から振り返って見たとき、このような事情は写真家という存在を見るという現象によって規定しうることの証しにもなりうるだろうか。
 試みに、何かを見ている写真家という存在を考えてみよう。そのときの写真家とは、その視覚的場面そのものにおける存在であって、それ以外の何ものでもないだろう。なぜなら、その当の視覚的場面の他に、それをさらに見ている存在があるとすれば、それはその当の写真家以外の何ものかであるからだ。つまり、写真家という存在を見るという現象において考えてみる限り、写真家とは視覚的場面に埋め込まれた存在の他のものではない。これは、何を意味しているのだろうか。
 見ることをその成り立ちから考えてみるなら、そもそも、見るものと見られるものがあって、前者が後者を見るというわけではない。見るということそのものは、関係ではない。というより、当然のことながら、見るということそのものは、そもそも存在ではないのであって、存在するのは、見ているという視覚的場面の状況のみである。したがって、見ることによって規定されうるような写真家など、どこにも存在しない。
 このことは、まったく奇妙なことのように思えるだろう。そして、だがたしかに、見ようとするその意思によって、見るということから規定されうる写真家という存在があるのではないかと思われるだろう。しかしそのとき、写真家において主体的におきていることといえば、見ようと思って眼を開ける、あるいはカメラを向けるということであって、そこには見るということはいささかも含まれていない。私たちは、眼を開ければ、あるいはカメラを向ければ、有無をいわずたんに見えてしまう。そこには時間の経過など存在せず、視覚的場面は、一瞬のうちに見えてしまう。ここには、主体が関わる余地がない。とするなら、やはり見るという現象から規定されうるような写真家というものは存在しない。
 こういったことを前提に写真家という存在を考えてみると、存在するのは、主体としての写真家ではなく、客体としての写真家、つまり名詞によって外から指示される客観性において規定される写真家のみである。そこでは、写真家はそれ自身において主体的には何も指し示しはしない。
 しかし、主体としての写真家が存在しなくて、どうして諸々の写真行為が可能であるのか。それに対しては、見ることがたんに見えてしまうことであるように、行為とはたんに行われるものであるというほかない。それは、根拠も正当化も無しに、まさに行われる。いいかえるなら、行為というものは無から生じる、ある盲目的な力の過程あるいは形態である。
 このようにして写真家という存在を考えてみることは、いっけん写真家を根拠や正当化を欠き盲目的な力にまかせて、写真行為を行うものと規定しているに等しくみえるかもしれない。だがそのような考えこそが、このような道筋を転倒させたものであり、また、無根拠を根拠とする写真行為を正当化し、あるいは盲目的な力をロマンティックに、例えば見る欲望として写真家を規定するような道筋にほかならない。なぜなら、行為がまさに行われることによってのみ、世界と関わりうる存在、客体としての写真家がはじめて生じるのであって、その逆ではけっしてないからである。そして、たんに行われる行為の責任を負うその所在こそが、この客体としての写真家であるといってよい。
 つまり、根底的には誰も自分で自分を指し示すことはできないように、客体としての写真家でないような写真家は、そもそも写真家でない。写真家=作家という名詞は、つねにこの客体としての写真家を指向する。写真家が、自身をいかに肯定的にあるいは否定的に語ろうとも、その語り自体が常にこの客体としての写真家を指向している以上、どのような写真家であれ、誰もこの外的な条件を抜きにして写真家として存在することはできない。今日、写真家という存在について考えようとするなら、この客体としての写真家にとどまり、かつ、そこから考えるほかないように思われる。