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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる10:写真論とメタファー2/日本カメラ1992年10月号:148]


 写真をもっとも特徴づけていることは、その再現能力であるといわれている。再現能力とは、私たちが直接触れうる世界、経験世界との重なり合いのことだといってよいだろう。写真は世界を切り取り、断片としての現実を再現する、このことはこれまでに幾度となく語られてきた。ロラン・バルトはこういっている。〈「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである〉、〈「写真」に写っている出来事は、決してそれ以外のものに向かって自己を乗り越えはしない〉(『明るい部屋』)。
 ところで、経験世界とはどのようなものだろうか。それは、認識の間に体系や調和を見出そうとしたり、様々な認識の矛盾について考慮する一般性・総合性が欠落した、その場その場の断片的な認識によって形成される世界であると考えられよう。このような経験世界は、私たちが身体をもって世界に対応していかねばならない存在であることに根拠をおいている。その基底にあるのは、日常的な行動を実際に行うことによってのみ、世界との関係は、より深められていくという考え方であろう。行動に着目する限り、言葉よりも具体的な経験が重視される。したがってこの経験世界は、行動を上手に行えば行うほど、世界を言葉によって展開し語ることを困難にしていく性質を持っている。
 こう考えるとき、もし写真の特徴として再現能力にだけ目を向けるなら、撮る・作る・見るといった写真にまつわる諸々の行為は、経験世界にのみすっかり寄りかかってしまい、もしそこで写真行為が成立しえたとしても、言葉によって写真を理解するという点では、写真について何も理解しえなくなってしまうだろう。バルトは先の引用に続けてこういっている。〈写真は、「ほら、これです、このとおりです!」と言うだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことができない〉。
 とすると、私たちはここで重大な問題に突き当たることになる。それは、断片としての現実を再現するという写真の特徴が、このように容易な経験世界への従属を導き、言葉による分類や記述を拒むのだとすれば、写真論や写真史といった、写真について語ることの言説的展開はいかにして可能なのかという問いである。
 写真をめぐる言説が、断片的な認識を脱し、積極的な言葉で写真を語り理解しようとするなら、経験世界とは別種の認識の形態、一般的・総合的・体系的な認識を求める働きが必要となるだろう。言述の形態からみてみるならば、経験世界では、矛盾が生じる余地がない「…せよ」という断定・命令の形で伝達がなされるのに対し、体系的な理解が可能になるためには、「…である」という解釈・記述の形での伝達が必要とされる。しかし、むろん実際には一般的・総合的・体系的という条件を満たさない解釈は存在するし、事実私たちが持っている写真に対する解釈は、おそらくすべてがそうであろう。だが、解釈・記述とは、つねにそれらの条件を満たすことを目指す性質を持っている。なぜなら、それらをいっさい目指さない解釈は、解釈とはいいがたいからだ。この意味で、解釈を可能にする認識は、かならず何らかの形で論理性を要求するものにほかなるまい。では、言葉によって写真を理解する世界と経験世界との、認識の形の決定的な隔りは、いかにして結ばれうるのだろうか。
 メタファーという言語的技法が、写真をめぐる言説の重要な位置を占めるのは、このような場面においてである。例えば、「写真は都市である」という表現で、誰にとっても明らかなのは、字義どおりの解釈において、写真は都市でないことである。「…でない」という対極の意味が同時に刻まれることによってこの表現は、「…である」という言述の形によって写真を言い当て解釈することをとりあえず逃れながらも同時に写真を記述するメタファーとなる。いいかえれば、メタファーにおける「…である」という言述は「…のようである」という表現と等価であることによって、「…である」と「…でない」の間の矛盾と対立を解消しながら結んで提示する。とはいえ、メタファーもまた言葉に属し何らかの解釈を目指しているのでなければ、それがメタファーであることすら理解されない以上、これによって記述がいっさいの解釈をまぬがれうるわけではない。また、断片的な現実から一定の距離をとり、現実を一般的・総合的・体系的な一定の仕方で見る論理的な視点がなければ、そもそも言語的技法を用いうる位相がそのものが生じはしないだろう。
 80年代の写真をめぐる言説が生んだものは、メタファーの多用による解釈の曖昧化によって、言葉によって写真を理解する世界と経験世界との決定的な隔りを埋めうるという、ナイーヴな、しかし盲目的な信頼に基づいているというほかない独特の錯覚である。そしてそれを裏打ちした論理的視点とは、その場その場の気分によって語り、それで事をすませてしまう恐ろしく稚拙なものであることが、今日では露出しているように思われる。