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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる9:写真論とメタファー1/日本カメラ1992年9月号:132]


 メタファーを写真論のなかに多用した言説が流布して、すでに久しい。
 もちろん、言葉が写真をそのまま再現することがありえない以上、写真を語るどのような言葉も、何らかの形でメタファーを含み込ながら、写真を示し、写真から何がしかのイメージを発見することを促していると考えることもできる。だが、80年代から今日に至までの写真状況のように、メタファーがあからさまに言説の諸相に浸透し、積極的に言説の網の目を構成したことは、かつて例がなかったはずだ。いったいなぜ、このような事情が生起し、今やそれが日常化しているのだろうか。
 こうした状況の一端を如実に物語る例として、写真と都市を重ね合わせて語る語り口を挙げてみることができるだろう。
 かつて、都市を語ることは、農村と都市といった図式の消滅から導き出される、都市の世界的均質性と画一化、あるいはその合理主義的な把握が導く抑圧に対する視座を基盤として成り立っていたように思われる。しかし、やがてこうした基盤に、いっけん微妙だが決定的な変容が訪れる。80年代に入り、東京、ニューヨーク、パリといった都市に対する諸々の読みが語られはじめる。これに伴いそれらが主題化され、従来の人間性を抑圧する都市という視点から、都市の在りようの複合的な読解を基に、都市を有機的メディアとして把握しようとする視点への傾斜が、様々な言説に配置されていく。むろん、こういった事情は、写真状況においてのみ立ちあらわれたものではなく、文化的と呼ばれる様々なカテゴリーにおいても同様に生起したことである。しかし、それだからこそ都市は、すでに表層というにはあまりにも分厚い層を形成していることに、今日の私たちは気づかざるをえまい。こうした層の一角にモードとして対応しながら、写真をめぐる言説もまた、都市論的な複合化した層と傾斜を、それ自身の内に浸透させてきたのだとは考えられないだろうか。
 ごく単純にいって、かつての都市への視線は、人工的・理想的都市像への批判として自らを定位していたはずである。例えば渡辺勉は、高梨豊の『東京人』から『都市へ』の作業を都市論と捉えたうえで、その移行を次のように形容している。「よりいっそう内なる都市へと向かって、現実の都市を否定するがゆえに発酵してくる彼の都市へのイメージは、さらに新しい表情をみせるようになっている」。ここで読み取られているのは、都市の作り手への批判とともに、都市生活者である個々人もまたその共犯者であるという視点から都市を見つめ、新たな表現論を模索しようとする視座にほかなるまい。このような視座において、写真表現における都市を考えることとは、写真と都市の関係性そのもの、そしてそれに埋め込まれた人間を考えることであった。そうした視座を基盤とする作品/批評は不可避的に、都市を眼差し語る自らを主題化する位相を含み込みながら、写真における都市論的言説を構成していたのである。80年代の写真状況で変容したのは、都市をめぐる言説におけるメタファーの比重である。つまり、かつての基盤で見出された写真と都市の構造的類似性のみがメタファーの多用によって極度に強調されると同時に、写真と都市の連関をその構造において思考する視座が極端に曖昧化しはじめるのだ。つまり、80年代に再び都市が浮かび上がってきたとき、その痕跡すら消去されていたのは、都市に関する共犯の認識そのものにほかならない。
 なぜこの変容が、決定的なのか。端的にいって80年代の写真表現は、その見かけがどのようなものであれ、都市という不可視の力と個々の表現の、互いが互いを否定する批判的構図によって形成されるものではないからである。都市と人間の垣根は取り払われ、それらはもはや相反目するものではなくなる。映像は都市の感受性を背負った何かとして語られ、人間は都市の無意識に浸透されたメディアとして捉えられはじめる。写真と都市、そして人間はメディアとして並列化され、それら相互の類似の位相が写真をめぐる言説に配置され、関係性を対立的に思考しようとする位相をメタファーが覆い、批判的・対立的構図を言説から次々と消し去っていく。
 ここにおける根本的な問題とは、このような実情にもかかわらず、例えば都市は映像の集積体であるとか、写真は都市の無意識であるといったメタファーが、まさにポストモダン的認識における近代批判の一端と錯覚され、近代と相対立するイメージを発見することを促していることにほかならない。だが80年代の写真表現が、広義での都市論的プラニングとの調和において、確実にその活性化の力をえたことを振返れば容易に理解されるように、実態がそのようなイメージの対極にあることは、今日ではもはや明らかなことであろう。都市を語るその語り口が提出する見かけの問いが告げるように、都市という不可解な力に問題の核心があるのではけっしてない。そうではなく、それとは裏腹に、問題はその語り口そのものに、つまり不可避的にその力の共犯者である者たちが、そこに生じる引き裂きを現実的には誰も抱えようとせず、矛盾から遠ざかりつつ、いかに饒舌に語るかというゲームを止められないでいることにあるのである。