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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる8:写真批評のトートロジー2/日本カメラ1992年8月号:132]


 70年代初頭に生じた自己言及的な思考を、写真を呪縛するトートロジー(同語反復)とみなす80年代の言説が、その円環の終りを告げるために繰り返し語ったスローガンは、「突き進み、突き抜ける」ことであった。
 写真がそれ自身の表現を捉え返そうとする限り、表現が表現に閉ざされ、写真が写真に閉ざされ、主体が主体に閉ざされることからは、逃れられない。ならば、ただひたすら突き進み、表現を、写真を、主体を突き抜けることによって、自由であるはずの表現を肯定してみることこそが先決ではないか。70年代的な「記録と表現」「写真と美術」「主体と客体」といった二元論的枠組はもはや崩壊し、近代というパラダイムはすでに無効になっているのだから――。コンテンポラリーと呼ばれる写真状況を支えた80年代の言説のトートロジーとは、このように、突き抜けることを盾にあらゆる枠組の無効を宣言し、枠組の崩壊を盾に突き抜けることを謳歌する円環によって彩られている。
 むろん、80年代もまたこのようなトートロジーによって円環をなしていたということを、ここで指摘したいわけではない。なぜなら問題は、80年代のトートロジーの特徴が、思考を意識化できない思考による、円環を形作らない円環であったということであり、また、それ自体では積極的な根拠を欠いているとしか思えない「突き進み、突き抜ける」ことを支えた、二元論的枠組の崩壊や、近代というパラダイムの転換が、いったい何を根拠に、かくもたやすく語られ続けたのかということにほかならないからである。
 なぜ二元論的枠組が無効にみえるのか、考えてみよう。それは、二元論における対立的な構図や、その両項が過去のものとなってしまったからではけっしてない。単純にいってそれは、二項対立における一方が他方を圧倒するまでに拡大してしまっていることによる。たとえば、「記録と表現」という二項対立についてみるなら、「表現」という項目があらゆる場面でますます拡大してきたことは、ここ10年以上にわたって、私たち自身が充分身にしみて知っていることである。もちろんこれは「記録」という項目が無視されたということではない。その逆に、弱体化しながらも先験的な価値が留保されたままの「記録」という項目に、「表現」の拡大そのものを反映させながら、ただたんに「記録」を担保に写真が語られることで、この弱体化した項目の力がますます「表現」へと発揮されているのである。
 こうして、拡大した項目はさらに拡大の途をたどっているのであって、そこで前提とされている基盤は、二元論を一歩も抜け出ているわけではないばかりか、それが二元論そのものに支えられていることすら意識できないものになっている。これを踏まえて考えるなら、二元論の短絡的な排除こそが、かつての二元論の基盤を前提としながら、それをさらに浮き上がらせているのだといえよう。
 そして、表現としての写真がかつてなかったほどに拡大してしまった現在、写真は自らを再び活性化するために、新たな意匠による二元論をその内に宿しはじめているようにみえる。ストレート写真の見直しが、その一例だといえるだろう。ここでもまた実際になされているのは見直しなどではなく、ストレート写真それ自身が孕む二元性における両義性・複雑性を無視しながら、ストレート写真というタームの語感に表現の拡大を反映させることで、表現をさらに無防備に膨らますことにほかならない。
 このように、「突き進み、突き抜ける」という楽天的なスローガンの基盤には、二元論的枠組の崩壊があるわけでも、近代というパラダイムの転換があるわけではない。このことを見抜いておかなければならないのは当然のこととして、今日の私たちはこういった事情が、どのような態度によってもたらされ、可能になっているのかについて、より関心を払わなければならないように思われる。なぜなら、80年代の言説にしても「突き進み、突き抜ける」ことをけっして正面きって主張したわけではなく、そこにはかならずスローガンを弛緩する保留が存在しており、またあるいは、基盤それ自体は共有しながらも、このようなスローガンに対して嘲笑だけはかならず加える、きわめて曖昧な言説がとぎれずに存在していることが、このような事情が形作られている根底にあるように思えてならないからである。
 つまり問題は、けっして一定の立場を引き受けることもなく写真を語り続けることで、思考を意識化することもできないこうした根底的にシニカルな言説が蔓延し、その言及の対象になっているはずの自己言及性そのものが切り詰められ、消え去ろうとしていることにあるのである。