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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる7:写真批評のトートロジー1/日本カメラ1992年7月号:152]


 写真表現の根拠を写真にのみ求めるのは、広がりを欠いた思考であり、結局それはトートロジー(同語反復)にすぎない。写真は、このような指向性に呪縛されるべきではなく、現実とイメージとのずれを自由に増幅したり拡大したりする、ダイナミックなイメージ生産装置として捉え直されるべきではないだろうか――。
 おそらく写真批評の80年代は、このような転換の要求によって、そのはじまりを告げている。主体を、作品を、写真を、開かれたメディアとして位置づけ、ずれや戯れを拡張する行為を、とりあえず無根拠に肯定してみること。表面的にはいっさいの矛盾が取り払われているこの光景は、写真表現に関して何一つ否定的な要素を含んではいないようにみえる。またこうした理解は、70年代までの否定性に基づく写真表現が一方的に排除してきたものの回復を求めることをその前提にしているのだから、事実そのとおりでもあるだろう。しかしこの理解が、そもそも写真表現の問題に関するものとしてもたらされていることを考えるならば、不審な点が浮かび上がってくる。
 ごく単純にいって、あらゆる近代的表現がそうであるように、写真表現がはじまるのは写真自体が問いになるときである。いいかえれば写真がそれ自体を否定性に基づきつつ目指し、新たな分節化を行うとき、それは表現の条件を備える。アルフレッド・スティーグリッツは、ストレート写真を提唱すると同時に、絵画的写真は必然ではないことを主張し、伊奈信男は写真に帰れと呼び掛けると同時に、芸術写真と絶縁せよといった。写真を指向する写真をトートロジーというならば、すべての写真表現はトートロジーに基づいている。しかし、それは呪縛というような、おどろおどろしいものなのだろうか。表現を条件づける差異化とその力が呪縛と呼ばれたとすれば、余りにもそれは一義的にすぎるというものだろう。それでは、80年代に呪縛と考えられたのは何なのだろうか。
 否定的な運動としての近代的表現にとって、独自性の獲得は否定性の位相にかかわっている。例えば写真表現におけるプロヴォークは、およそ実現不可能なことをスローガンとして掲げることで否定性を根底的な位相において展開したが、このことは望む望まざるに拘らず、そのみかけとは逆に、極度の表現的野心を示している。むろん、ここでの否定性が経験的主体に集約されるならば、自ら発したスローガンが自らをどこまでも呪縛することもありえよう。しかし構造的にみるなら、自己否定に至るような否定性を形成するこのような空無な場面でこそ、写真表現はすべての力を無根拠に内面化しうるのである。プロヴォーク以降の写真表現は、ある意味でこの力に拠っているのであり、これがただ一面的に呪縛であるはずがない。とりわけ、この否定性の主体化を経験せず、それを語りうる者にとっては。
 端的にいってトートロジーとは、常に真になるような問いの提起であり、要するに語らずに済むことを語ることである。否定性に基づく写真表現のあらゆる運動も、その外部から見渡せば、写真を指し、これが写真だといっているだけともみなせるのだから、あるいはトートロジーだといえるかもしれない。そして、写真批評の80年代の不審な点とは、このような外部の視点を、接合と組み込み、横断性といったタームのもとに写真表現のものとしていきなり内面化し、それはトートロジーにすぎない、それは呪縛にすぎないと語ったことにほかならない。だが、外部の内面化とは、否定性の消去であり、写真表現の枠組みの消去であり、したがって接合と組み込みの可能性の消去そのものでもある。それは、否定性それ自体を否定すること、枠組みそれ自体の否定によって主体性を消去することであり、それゆえここでは表面的にはいっさいの矛盾が取り払われているのである。しかし、このような矛盾のない表面、表面ですらない表面で、「写真は…、写真は…、」と繰り広げられる写真批評こそがトートロジーでなくて何だろうか。
 しかし、むろんこのような余りに清楚な形容は正確ではない。というのも、いかにそれが枠組みの消去に基づいていようと、そこには語るという行為によって生じた枠組みがあるからである。外部が内面化されたここでは、仮構された不特定多数の観客が唯一の価値基準になるだろう。つまり、誰にとってもわかりやすく面白いこと。「わかりやすく面白いこと」を前提として、いっきに「わかりやすく面白いこと」に結論づける80年代の写真批評のトートロジーは、まるで幼稚化を競い合うかのように、写真批評の共通の基盤となっていき、表現のわかりにくさを階層化しつつ、一方的に排除してしまう。このような構造が極端に練り上がった現在では、「わかりやすく面白いこと」はいわずもがなのことであり、その言説を介してみえてくる事態はしだいに変容し、あるいは終わったとみなされる錯視の共通の基盤が形成されるほどに、この構造それ自体が脱色されつつある。そして今また、ドキュメンタリーやストレート写真について語られることが多くなってきてはいるのだが、ここでもまた繰り返し繰り返されているのは、80年代的な写真批評のトートロジーであるように思えてならない。