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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる6:写真のパースペクティヴ2/日本カメラ1992年6月号:131]


 一方で写真に対するあらゆる限定が退けられながら、他方では写真とは直観的に一挙に把握されるべき何かであると信じられる。たとえば、写真を脱領域的に考えるしなやかさが要求されるとき、同時にそれが写真に対する先験的な信頼に支えられているというふうに。80年代の写真をめぐる言説の不可解な点とは、それがこのような矛盾に基づいたものであることであり、かつ、その矛盾を意識化することが徹底して排除されていることにほかならない。
 こうした構造のもとでは、自らが語っているはずのところの意味内容は、ほとんど問題にならない。わかりやすい例をあげれば、80年代に盛んにいわれた「戦略」や「可能性」という言葉が、写真表現のなかで何を見て何を意味していわれたかを知る者はおそらく語った当人も含めて誰一人いまいし、実際その意味内容は問題化されたことすらなかったように思われる。このような性格をもつ、いっさいの合理性を拒絶・排除する80年代の言説に埋め込まれた構造は、いったん否定された対象がそれを否定する当の主体をとおして再生する、あるいは、否定する主体がすぐさま否定する対象の相似形を描きはじめるという構図を潜在化させている。ここでは、かつて解決不可能と思われた表現と記録、主体と客体、普遍性と個別性、秩序と逸脱といった一連の矛盾と対立が、信頼によって写真を見る/語るというただそのことによって、魔術にでもかけられたようにたちどころに溶解し、意識化されぬ悦ばしき矛盾・活力として主体に宿るのであった。事実、80年代の言説が語ることと行うことの間で唯一整合的であったのは、「写真の魔術」「写真の魅力」を先験的なものとして、それらを自明に託された代理人のように語るときのみだったのではないだろうか。
 作品という位相をおよそ意識化せずに作られる作品、批評という位相の制度性をくどいほど告発しながらも、そのじつ批評の制度については一度も考えられないままになされる批評といったものが存在可能になるのは、こういった空間においてである。同時にここでは、いっさいの分析的知に基づく作品や批評は、「魔術」や「魅力」への冒涜に等しい試みとみなされ排除されるだろう。そして、あらゆる意識化や論理性を排除することによって、「魔術」や「魅力」のニュアンスや固有の質のみが主体的に主張されるこの空間では、脆弱な主体というみかけのもとに不動の主体の君臨が導かれる。このような主体とは、前回も述べたように、自発性がもっとも発揮されていると信じられながら、じつは制度的なものがもっとも自然生成的に巧妙に形式化された場面にほかならない。この形式化とは、つまるところ意味を空洞化することであり、そのことによって既成の力をなしくずし的に承認し内在化することである。一般的に、その形態はスノビズムと呼ばれ、その主体の形式化の過程はニヒリズムと呼ばれるところのものであるが、このような形式性をさらに平易にいうならば、既成の力に基づく得体の知れない信頼や礼儀と呼ばれるもののいっさいがそれである。
 写真行為のあらゆる場面を無意味化しながら、その反面、すでに成立している力だけは少しも漏らすまいとする形式化された主体。こうした様態を踏まえたうえで批評という場面に目を向けてみるなら、とりわけ制度性への批判に多言を費した80年代の批評において、写真への先験的な信頼が批評の最大の基準になっていることは、写真表現の陳腐化というほかない事態である。また、写真を好きか嫌いか信じるか信じないか、そんなことこそは個人の恣意に基づく、問うてみても仕方がない、また問われる必要も答える必要もないことであるにもかかわらず、いっさいの意味内容が排除される過程の内でそれのみが常に抑圧的に問われるこの事態は、写真行為の幼稚化でなくてなんなのだろう。
 むろん、こういった観点に対して80年代の主体は、例のスノビズムに裏打ちされたニヒリズムによって、それはそれでよいではないかと語るかもしれない。だが、そうではない。なぜなら、このような事態は外見が悲惨であるのみならず、その構造に致命的な欠落を孕んでいるからである。それは、現在の写真がそもそも写真行為の先験的自明性への懐疑に基づいており、写真行為を信じられないことを例外なくそれに関わる者に強いるものであることが、この構造からはいっさい問いえないことである。つまり、80年代の主体を彩る形式的価値は、そもそも写真行為への懐疑を形式化したものであるにもかかわらず、そこでの主体は自らの価値の根源を知りえないがゆえに、このことを問われると究極的には恍惚と「写真の魔術」を信じるとしかいえない破綻を孕んでいるのである。そしてこのことに関してだけは、それはそれでよいではないかという余地がいっさい残されてはいないはずである。
 私たちが直面しているのは、作者・批評・観賞といった項目をフィクションと化さずには写真行為を確立しえない、しかも、そのことが構造的な主体における問いの欠落の末に露出した、このような局面にほかならない。