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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる5:写真のパースペクティヴ1/日本カメラ1992年5月号:137]


 写真を撮ったり、見たり、あるいはそれについて語ったり、読んだりする。これらは多種多様な行為である。しかし、私たちはこうした雑多であるはずの写真行為のあれこれを、ふだん特別に意識することもなく、またその必要もなく、自明のように行っている。このように多種多様な行為をあたりまえに行えるのは、近代という等質的な環境、つまり幾何学の座標軸のように任意の基点をもとにした測定可能な時空間、合理的な認識に私たちが属しているからである。さまざまな行為がここでは、同一で共通の「私」の経験としてとらえられ、私たちの行為は何らかの意味で等質化されるだろう。
 だが同時に私たちは、こうした環境を個別の経験として生きてもいる。それは、撮る私、見る私、語る私…でありながら、まったく共通性を持たない〈私〉の行為における、〈は−いまここにいる〉ことの明証性・絶対性としての経験である。ここで私たちが生きる時空間とは〈〉〈いま〉〈ここ〉が一体をなし、けっして自らを名指すことのできない“点”のようなものである。こうした意味での経験とは、非連続的で非等質的なものとなるだろう。
 このような矛盾とは、合理性を受けるものと、それを避けるもののあいだの矛盾、私たちの身体に深く埋まっている根底的な矛盾である。この矛盾を近代はどう抱え込んできたのだろうか。
 外在的な環境を理解・認識し、測定可能なものとして取り扱うことができることは事実としても、それは私という主体が非等質的な時空間を生きていないことを意味するわけではない。というより、このような根底的な矛盾における否定性としての主体が、自らの実現のために行う運動の独特の形態として形成されてきたのが近代なのだ。つまり近代そのものが、けっして自らに抱え込むことのできないこの矛盾の、ある種の効果であり独特の産物にほかならないのである。
 すると、ここで問われなければならないのは、私たちにとっての主体、写真行為にとっても無縁ではありえないこうした主体の性質についてであろう。
 〈〉〈いま〉〈ここ〉が一体をなし重なり合う地点、それは等質的時空間のように座標を任意のものとして取り扱うことが不可能な地点である。それは相対的な認識を拒み、関係の相対性や可逆性を持ち合わせてはいないだろう。価値や意味の相対化が拒まれるこの地点では、合理的認識の代わりに、それぞれのニュアンスや固有の質が価値や意味への手がかりとされるだろう。ゆえに、ここでの主体は、根底的に還元不可能で、肯定的・絶対的な性質をおびることになるだろう。
 そして、確かに私たちは80年代、このような主体を肯定しようと努力したのだった。
 私たちは「…のような感じ」「…のような雰囲気」といった表現を、従来の社会的あるいは政治的な価値や意味に代わるものとして盛んに活用したのではなかったか。そうした表現にまつわる価値や意味をこのような主体のものにするために、「私は、私は…」と語っていたのではなかったか。そこで生じてくる同一で共通の「私」を取り消すために、さらに自己に対しての苦笑や嘲笑を急いで加えていたのではなかっただろうか。
 こうして得られた主体とは、いったいいかなるものだったのだろう。それはいっけん内省的な自己否定から導き出されたもののようにみえて、そうではない。ここでの主体の否定性とは、ただ主体の肯定のために形式化されたそれであり、ここでの努力はけっきょく、こうした主体が自/他に対しての価値や意味であるために、主体を形式と化すそれであったのではなかろうか。ここ十数年をこのような観点から見直してみれば、主体の形式化の努力としての表現を、つまり、誰のためでもなく〈私〉のためであるがゆえに万人のためであることを渇望する表現を、私たちはあらゆる場面で見出せるはずである。そして、同一で共通の「私」を消去しようとするこのような主体は、おのずと作者の不在・批評の不在・観賞者の不在を呼び寄せる性質をそなえているといえるだろう。
 このように考えるならば、私たちがたどりつくのは、作者・批評・観賞といった項目をこのように一方で不在化しながら、他方でそれを諸々の写真行為の拠り所とすることの滑稽性である。
 このような滑稽性にすら、私たちは苦笑や嘲笑を加えることができるのだろうか。仮にできたとして、それをはたして写真行為と呼ぶことができるのだろうか。