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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる4:写真論の位相2/日本カメラ1992年4月号:156]


 “主観/客観という近代的枠組みから解放され、写真は自由に多様に世界を映しだすメディアへと変容した”――このような定式が、ここ十年来写真を捉える支配的な考え方として流布しているように思われる。そうした考え方の前提の典型を、例えば次のような言述に見ることができるだろう。
 「我々が入りこんでしまった空間はまるで鏡の箱のようだ。そこでは〈見るもの〉が〈見られるもの〉であり〈見られるもの〉は〈見られたもの〉のなかに消え去り、〈見られたもの〉がまた〈見るもの〉を動かしている。(中略)かつては直線的な関係で結ばれていた撮るもの(見るもの1)→撮られるもの(見られるもの)→撮られたもの(見られたもの)←大衆(見るもの2)という枠組みが、無限の鏡のイメージのなかで分裂と増殖を繰り返す」。(「鏡のなかのイコン」、『写真都市』増補版・伊藤俊治)
 ところで、こうした前提が支える、私たちが入りこんでいたこの十年来の空間とはどのようなものなのだろうか。それを考えるために、このような構図を別の視点から見直してみよう。すなわち、「写真世界」を「見る←→見られるという行為」から捉えるとき、そもそも「見る→見られる、あるいは撮る→撮られるという確固たる恒常的な直線が定位していた」ことが果してあったのだろうか、と。
 主観/客観という図式が認識を支えてきたのが近代であるからといって、近代が主観/客観における境界の認識の確かさによって支えられていたわけではない。むしろ、主観/客観という図式に潜む矛盾を動力に、境界の確かさをめざす認識論的努力の構造が近代なるものなのだといったほうがよい。この構造は、ある意味で例えば主観/客観という図式の認識論的発想のもととなった、デカルトの《われ思う、ゆえにわれ在り》という空間にすでに内在している。あらゆる存在の客観的自明性を疑うデカルトは、疑う〈私〉そのものを疑いえない点――《われ思う》として表象することで、《われ在り》の現実性・客観性を照し出す。自己を表象する主体が自分で自分を支え、表象された自己によって主体の現実性が保たれるこの空間では、表象による認識が存在を支え、認識と存在が互いを原理的に否定することで互いを保障するという矛盾が根底的に潜むことになるだろう。この意味で近代とは、世界はもとより具体的であるはずの自己をもが像化された、表象=像=イメージによって構造化されたものにほかならない。
 このような空間における矛盾は、それゆえ〈私〉においてもっとも端的に露呈する。世界を見ている私がいる、その私を私は表象として見ている、その見ている私を私はまた表象として見ている……、〈私〉をめぐるこのような入れ子の構造はどこまでも終りはしないだろう。だがこれを無限に繰り返すことは認識のうえで可能的に描けるだけで、存在のもとでは事実上不可能である。そこで実際には、このような入れ子の構造の奥底に、何やら不可解な[純粋自我]のようなものが想定されることで、この無限退行は断たれる。しかし自己反省の問題が表象の位階関係に巧みに置き換えられた《われ思う、ゆえにわれ在り》という空間において、この入れ子の構造は必ずしも内省的にたどられるわけではない。くわえて、表象が存在の目的となりさえすれば、この無限退行を断つには充分である。よってここでの〈私〉とは、表象=像=イメージ化された世界の目的、つまりすべての目的そのものへといつでも瞬時にすりかわる可能性をもっている。とりわけ、内省的に自己の存在の価値が見出し難いときには。
 こうした観点から見るならば、「見る←→見られるという行為の境界が不確かになっていった」こととは、主観/客観という近代的枠組みからの解放を意味するどころか、その正反対に「写真世界」が近代的な認識論的価値によって育まれてきたことの表面化以外のなにものでもないだろう。それは極限的に見れば私たちの感受性が決定的に変容したことの証しには違いないが、この感受性とは、無限の鏡のイメージのなかですべてを自己の目的と化する[純粋自我]のようなもの、すなわち主観/客観という共時的体系に深く埋没しながらも、〈私〉の空虚を分裂・増殖させることで共時的体系との差異の主張のみを渇望し目的化する[欲望するそれ]にほかなるまい。
 このような空間が、私たちが入りこんでいた80年代の写真の言説空間であったとすれば、はじめに述べたような定式が変奏され繰り返されたことがどのような役割を担っていたかは明白である。それは、根底的には存在の価値を空洞化する自己否定的な構造をもつことで、何ごとかを語っているように見えながら、実際には何も語っていない言葉、恐ろしく無内容な言葉であり、そうでありながらその空虚さゆえに、もっとも有効に共時的体系への従属――表象の位階関係への均質的・同一的な従属を迫る行為にほかならない。それは、私たちに迫るだろう、楽しめ、戯れろ、すべてを〈私〉の目的にせよ、すべてを一つにせよ、と。80年代の写真が見事に表現したのはこのような空間における、統一性なき画一性、相互に差異のみを主張する個性の画一性ではなかっただろうか。
 こうした空間を問いうる地点を見出すこと、それは写真論がそうした役割を果たす言葉であるのとは別の次元を内省的に探ること、そして、そのことによって写真の言説空間の位相構造それ自体を変形することによってしかなされえないように思われる。