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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる3:写真論の位相1/日本カメラ1992年3月号:127]


 〈「芸術写真」と絶縁せよ。既成「芸術」のあらゆる概念を破棄せよ。偶像を破壊し去れ!そして写真独自の「機械性」を鋭く認識せよ!〉(伊奈信男『写真に帰れ』)
 写真表現についての重要な位置をしめる議論の一つは、写真と対象世界の間の、写真=対象世界という一致と、写真≠対象世界という不一致の関係をめぐってなされてきたものだと考えられよう。例えば『写真に帰れ』において「芸術写真」を批判しつつ「機械性」を強調し、「現実写真(レアール・フォト)」を提唱する伊奈信男は、写真≠対象世界という不一致に「偶像」を見出すものとして「芸術」や「芸術写真」を否定し、写真=対象世界という一致を「現実写真」として提起しているようにもみえる。だが先のように述べるとき伊奈は、けっして芸術なるものを否定しているわけではない。逆に、写真の独自性としての機械性に、新たな芸術への使命を表象しているのである。〈現代の如き大工業的、技術的様相を持つ社会に於て、写真こそは、最もこの社会生活と自然とを記録し、報導し、解釈し、批判するに適した芸術である〉。それゆえ、〈カメラの「機械性」は「特殊的・写真的」なるものの「はじめ」である。しかし写真芸術の「はじめ」ではない。写真芸術のアルファは、カメラの背後にある人間である。しかも社会的存在としての人間――社会的人間である〉。
 この伊奈の主張において興味深いのは、機械性それ自体が直接に写真の独自性を形作るものとして提起されているわけではなく、じつは来るべき芸術の像が先取りされたところではじめて、写真の機械性が独自性として見出されていることである。ここで問われていることは、いっけん写真と対象世界の一致と不一致との対立にみえて、そうではない。伊奈にとって重要なのは、写真の機械性を自明のことのように優位に置くことで、写真と対象世界の一致の関係に写真の独自性を与え、自らの写真観にそれを折り込むこと、つまり、自らの芸術観・写真観における写真の独自性の位置づけによって、「現実写真」という自身の観念そのものをも機械性に根拠づけ、「芸術写真」から差異化することにほかならない。すると、ここでの社会的人間――カメラの背後にある人間とは、どのような存在なのだろうか。伊奈はいう、〈人間が、主体が、これらの客体(社会生活の断面や自然世界の一般事象−引用者)を見るとき、それは既に単なる人間の眼を以て見るのではなく、「カメラの眼」を以て見るのである〉。だが、〈「カメラの眼」を以て見る人間〉とは、何という矛盾に満ちた存在であろうか。
 このような議論を、私たちに比較的なじみのあるところでは「記録と表現」という問題の捉え方に見出すことができるだろう。〈写真は表現であるか、否か?〉と問う中平卓馬は、〈物があってはじめて写真があるというその記録に徹することによって写真は何ものかでありうる〉という結論を引き出す。〈写真がそのような(内的なるものの表白としての−引用者)表現=芸術にこだわり、それに憧れるかぎりにおいて、それはしょせん二次的な表現であり、不自由極まる「芸術」にとどまる。物があってそれをカメラで撮る。純粋な意味でそれは記録というものであろう。その機能を放棄して写真は成り立たない。今こそ写真と写真家はそこにかえってゆかなければならないのだ〉(『リアリティの復権』)。むろんここでの「記録」とは、情報価値としての写真の記録性に対して提出された〈私の生きる生の記録〉であることはいうまでもない。しかし、それゆえに私たちは、ここでもまた自らの写真観に折り込まれた写真と対象世界の一致の関係、すなわち「記録」という自身の観念そのものを写真の自明化された機能に根拠づけ、「表現」から差異化しようとする構図に出会うことになる。そうである以上ここでの〈私〉もまた、矛盾に満ちたものとなろう。中平は後にこういっている。〈私の回路はずたずたに引きちぎられている〉(『記録という幻影』)。
 このような発想、写真の独自性を写真=対象世界という一致の絶対性に置き、それによって既存の「芸術」や「表現」を乗り越えるというロマンティックな構図の再現は、最近では「機械性」に代えて「複製性」を置くことで、ある種のポスト・モダニストたちによってなされている。だが、そうした構図そのものが、写真=対象世界という一致と、写真≠対象世界という不一致の関係における矛盾の、自己否定的な意識におけるナイーヴな表明としてもたらされたものであり、かつ、そこでの矛盾の諸々の形態とその変容こそが表現の価値を形成してきたのだと考えるならばどうだろう。私たちはそうした構図自体の形態と変容を、つまり、飽くことなく繰り返されているこの写真の言説空間の位相構造を見直すべき時期にさしかかっているのではないだろうか。