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[現代写真の発想〜90年代の水脈をさぐる2:写真的「写真」について2/日本カメラ1992年2月号:129]


 近代写真の成立以降の写真家や写真表現については、これまでにもさまざまに語られてきた。だが、その多彩な営為のどれにも共通していることとは何だろうか。
 これまでの写真にまつわる営為を特徴づけているのは、なによりもまず、その写真行為や写真的認識のどれもが、ある種の主体性の内に裏づけられていることであろう。写真を撮ること、写真について考えること、そういった営為のあれこれを、写真家のうえに起こる選択の連続として捉え、かつ、その結果における作用を写真家の自意識の領野に帰属することができるという考えが人々に共有されたとき、主体性としての写真家がはじめて描かれうる。写真の近代性の芽ばえとは、こうした条件を備えた主体性としての写真家が生まれ出てくる過程であり、それ以降写真表現は、そこでの諸々の関係性を主体性の連関として描くことで、近代的な写真の領域を形づくってきたといってよいだろう。
 しかし、こういった近代写真の成立とその展開を可能にした動力について、改めて振り返ってみると、不思議なことにつきあたる。それは端的にいうならば、こうした主体性が成り立つ基盤そのものの内に、写真の近代をいっけんそれとは相入れない対極のものへと転化させていく運動性がそもそも孕まれていることである。
 こうしたことを考えるとき興味深いのは、20世紀初頭にアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)が、彼自身深く影響を受けた絵画的(ピクトリアル)写真を否定することによってのみ、絵画的(ピクトリアル)写真に自身の表現を織り込むすきまを作り出し、「ストレート写真」という理念をはじめて生み出すことができたこと、しかも、その理念は表現の形式を規定するものというよりも、形式の否定によって起こる独特の運動性によって特徴づけられることである。つまり、彼が自らを主体性としての写真家へと描きだす過程とは、自己否定によって、かくあるべきという経験の可能性を作り出すことの繰り返しであり、現在の経験をそのつど解消するこの逆説的な繰り返しとその共有によってのみ彼は、写真表現の領域を獲得することができたのである。ここで重要なことは、スティーグリッツが写真家を主体性として構築する過程そのものが、写真の領域が作り出される過程であり、しかも、その構築の動力は自身が帰属する写真の領域をたえず否定することでもたらされていることだ。したがって、主体性としてのスティーグリッツの身体は、否定されるはずの現在的なそれと、肯定されるはずの未来的なそれとに、避け難く二重化された経験に彩られたものとなろう。ゆえに、スティーグリッツにとって撮ることとは、現在の経験を無化し、自身を未来へと投げ出すことである。彼は言う――「写真を撮るとき、私は単にしかるべき役目を果たすだけだ。あらかじめ真実や人生について考えたりはしない」。
 このことは、彼の写真観においてより鮮明になるだろう。スティーグリッツにとって写真の再現的機能を尊重することとは、それに表現的価値を担わせること、つまり、再現的機能を、写真本来の固有で独自な機能として位置づけなおすことである。そこにおける再現的機能とは、もはや実体的なものではない。それは、写真を撮ることの経験のありかでありながら、ここにあるものではなく、かくあるべき写真の姿として先送りされることによってのみ否定的に、経験のありかとして現在へと投影されるものである。そうである以上、ストレート写真とはけっしてここで達成されることがなく、写真の理念としてイリュージョンとしてのみここに投影される抽象性にほかならない。スティーグリッツはそうした経験のありかを内的な契機として固有化することで、写真にまつわる諸々の機能を抽象化し、近代的な主体性を育み、象徴的なものとしての写真の領域を生み出したのだといえよう。『エクイヴァレント(等価)』とは、スティーグリッツの作品の題名でもあるが、それは、彼の写真観のありかとして多様に用いられたキーワードでもあり、それゆえ、後続の写真家たちに大きな影響を与えた写真的な概念でもある。簡単にいえば、それは、写真を自己の内的な経験や真実と等価なものと捉える考え方だが、注意しなければならないのは、そこでの「写真」とはいささかも実体的なものではなく、つねに先送りされる理念としての〈等価〉という光源が、内的な経験や真実を照らし出したときの、いわば影のようなものであることだ。
 写真に自身の観念や自然の心理を投影し、写真をそれらと等価なものとして現すというような表現の構図は、今でこそ写真表現の自然なありようと見なされるかもしれないが、それらはスティーグリッツの営為によってもたらされた独特の錯覚というべきものである。もちろん、そういった自己表現の構図自体、むしろ今では古びた考えにみえるかもしれない。だが、そうした構図を乗り越えようとする運動性そのものが、あるいは、そこにおける二重性による引き裂きこそが、スティーグリッツの主体性の根源であったとすれば、どうか。私たちがスティーグリッツの写真観を乗り越えたと思ったまさにそのとき見ているものこそが、スティーグリッツの影にほかならないのではないだろうか。