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[家族の理想像を生み出す家族写真は行動様式そのものを規制するメディア:FAMILY・2/アサヒカメラ1992年8月号:131]


 その発明当初から今日にいたるまで、写真は家族の姿や在り様を描き出すメディアとしての機能を担ってきたといわれている。そしてこの写真における家族の記録は、ある時は家族の緊密な絆を、またある時はその崩壊を示すものとして物語られてきた。このことは、理想的な家族像とその崩壊が問題として取り扱われ、頻繁に語られるようになった近代という時代と対応しているといってよいだろう。しかし、家族の崩壊とは近代にのみ特徴的な現象なのだろうか。
 人間は、自然で連続的な時空間の流れを、様々な象徴化によって分節し、非連続的な差異のシステムを形作ってきた。家族という共同体もむろん、このようなシステムの例外ではなく、人類は家族という象徴のシステムを、いつもその歴史的過程に組み込んできた。このことは、近代という時代のみならず、人々がいつの時代においても家族の崩壊とその再生を繰り返し、家族という象徴のシステムそれ自体を組み替え、変形しながら持続させてきたことを物語っている。
 すると、近代という時代に特徴的だというべきは、家族の崩壊と再生という現象それ自体ではなく、家族という分節と写真というメディアの象徴性が緊密に結び付き、そこではじめて理想的な家族像なるものが生み出され、浸透し自明化されたということではないだろうか。そして、この理想的な家族像が浮び上がってくればくるほど、皮肉にも家族の崩壊が声高に語られるようになったのだともいえるだろう。
 ここで改めて指摘するまでもなく、映像的イメージは、かくあるべき姿、かくあるべき在り様を、直接的・視覚的に提供し、人々はそれに自らの現実を整合させようとし、また、整合していることを確認するためにさらなる映像を生産する傾向がある。この意味で、写真における家族の記録とは、けっして無垢な記録ではありえず、現実と理想像の透明な一致の保障を求める「記録性」をいつもその根底に孕んでいることを忘れてはならない。
 つまり、家族という分節を内在化させた写真、あるいは家族という文脈のもとで読まれる写真においては、それが理想的な家族像を描いている場合はもとより、家族の解体・崩壊を描いている場合であっても、それは理想的な家族像と対比されてはじめて意味を持つ理想的な家族像のヴァリアントにほかならず、そこには必ず理想的な家族像が常に照合されるべきイメージとして横たわっているのである。いいかえれば、家族なる象徴をめぐる写真は、家族の姿や在り様を映像化すると同時に、理想化されたそれを内包し、人々の家族に対するイメージや、さらには行動様式そのものを機制するメディアとしての機能を担ってきたのだといえるだろう。