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[性と死のイメージからメイプルソープをみる・逆説に置き去られた写真表現の事実・客観性/アサヒカメラ1992年6月号:112]


 メイプルソープが死んだ時、どうも彼がほんとうに死んだ気がしなかった。おそらくそれは、メイプルソープの死が予想されることを誰もが好んで話題にしていたし、そこで作られた物語があまりに出来過ぎており、事実その出来過ぎの物語を裏切ることなく彼が着実に死んでいったからだろう。
 しかし、メイプルソープの死から幾年かが過ぎた今、そもそも彼が生きていたという気がしない。これはどうしてなのだろうか。この感情は、彼の作品が早くも古典と化したとか、俗に言うあらゆるものの商品化による死のリアリティの喪失とも違っている。おそらくこの感情は、彼の作品をかつてのように心待ちにし、生々しく受取っていたことが信じ難く思えることと、彼の死がいつであったか、いかなるものであったかということの忘却の間にある何かである。
 メイプルソープがスキャンダラスであったのは、かつて表現においてある種のタブーであったゲイ・カルチュアの内側から、ホモ、SMといった倒錯的性の営みを、セルフ・ポートレイトをからめながら押し出したからであった。だが、SMを撮ることとSMをやること、自分を撮ることと自分を見つめることは、直接的には何の関係もないことである。たとえそれが同一人物とされる作家によってなされたとしてもだ。だがメープルソープが語られるとき、それらの違いはいかにも短絡的に混同されてはいなかっただろうか。
 このような混同の下に彼が死んだとき立ち現れたのは、具体的な死を排除することで、死を写真化することである。死ぬことなしに死を現すことはできないが、死を写真化することは不可能ではない。例えば、死が写真化されつつあったからこそ、彼の花の写真のような作品に濃密な匂いが漂ったりもするのである。そして絶対的な事実とは、死ぬことを現しえたのは、つまり具体的な死を体現したのはメイプルソープただ一人であって、他の誰でもないということだ。では、この死の写真化とはいったいどのようなことか。
 写真が死をも表現に取り込むこと、それが死の写真化である。死が写真表現に取り込まれたからこそ、彼の死と彼の作品が混同され、あのように流暢にメイプルソープの死が語られたのだった。そして、ここで具体的な死が排除されたように、写真表現からも排除されたことがある。それは写真についてよく言われる、写真の残酷なまでの絶対的な事実性・客観性であり、あるいは表現における闘争である。それがいかに陳腐に見えようとも、メイプルソープをめぐり具体的な闘争が、エイズという問題において、ホモ・セクシュアルという問題において賭けられたアメリカにおいてはそうではないかも知れないが、少なくともこの日本においては、写真の残酷なまでの絶対的な事実性・客観性などはまったくの空論であって、実際にはもはやどこにもないのである。また、それがどこにもないことを感覚的に知っているからこそ、空論と化した芸術の死を賭した闘争や写真の死がすみずみまで行き渡ったのだ。そしておそらくこのようなことが、そもそもメイプルソープが生きていた気がしないという感情を生んでいる。
 したがって、メイプルソープの作品を見るためには、写真化された彼の死こそが風化されなければならない。これはいささかの皮肉も逆説も含んでいない。メイプルソープの死の無意味さに気づいた者のみが、このような感情を越えてメイプルソープの作品に遭遇する者になるだろう。