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[映像表現の中で物語となったエイズ・この病のリアリティを画面からどう読むか/アサヒカメラ1992年2月号:136]


 80年代に社会的に顕在化したエイズという病が、美術や写真を語るうえで欠かせない「問題」を構成しはじめるのには、たいして時間がかからなかった。例えば、89年にワシントンD.C.のコーコラン・ギャラリーで予定されていたロバート・メイプルソープの回顧展が、国家芸術基金(NEA)の援助を受けていたことから、論議を巻き起こし、結局はコーコラン・ギャラリーが自主規制するかたちで直前に開催が取り止められた事件は記憶に新しい。また90年に出版された、キャロル・スキアーズの編集による、現代写真論のアンソロジー『クリティカル・イメージ』には、「写真とエイズ」という論考のほか、メディアと政治にかかわる文章が多く集められており、ここ十数年のあいだに批評シーンが一変してしまったことを感じさせられる。もちろんこうしたものは、ほんの一例にすぎず、80年代の後半からのアメリカでの映像表現が、エイズをめぐる言論や活動と切り離せないものになってきている事例は、いたるところに見つけることができるだろう。
 このような状況は、すでに随所で指摘されているように、エイズが美術や写真のコンテクストの中で物語化されていることを知らせている。と同時に、それはエイズという病がそのようなコンテクストの中での再三の物語化に耐えうるだけの、社会的なリアリティをそなえていることを意味してもいる。つまり、エイズを物語化してしまう表現の制度性が論議の的になり、あるいは物語化したエイズを脱構築する言論や活動が試みられるといったことそれ自体が示しているのは、ともすれば耽美的な水準に容易にすべりこんでしまうポスト・モダニズムの表現と、社会や政治との接点(麻薬、同性愛、人種問題…etc)を再びとりもどす糸口としてエイズに焦点があてられていること、そして、その背景には繰り返し参照される拭い去りがたい社会的「事実」としてのエイズが在ることだろう。
 エイズをどこからか「輸入」された疾病として片付けようとする類いの言論は、どこの国にもみられるものであり、それらはむろん批判されなければならない性質の考えだが、わたしたちがいま直面しつつあるのは、エイズという「問題」が参照されるべき社会的「事実」を欠いているような雰囲気のなかで、映像表現における批判的活動や言論すらも込みになって「輸入」されつつあることであろう(周知のように、ヴィジュアルなイメージは、文化の垣根を越えたとき、いとも簡単に意味が変えられてしまう)。参照点としてのエイズの欠如の中で、ここで培われつつあるのは徹底して物語化されたエイズの増殖なのではないだろうか。エイズが免疫不全により自己と非自己の境界を揺らがす病なのだとすれば、参照点が確定不可能なこうした傾向は、「問題」(物語)のエイズ化と呼ばれるべきかもしれない。
 ヴィジュアライズされたエイズに対するある種の拒否反応は、当然なされるべき批判も含んではいるだろうが、たぶんその最も大きな理由は、それがあまりになこと、つまりそれが充分に物語化されていないことに対する嫌悪であろう。もしエイズに対するヴィジュアルな活動が何らかの有効性を持とうとするなら、おそらくこのような嫌悪感をことだけが、わたしたちにとっての参照点になりうるのかもしれない。