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[伝記の中に読むアメリカ文化:ビッキー・ゴールドバーグ『美しき「ライフ」の伝説』/週刊ポスト 1991年5月3日号:118]


 かつて、雑誌と写真というメディアの融合が、人々の見ることという営為を形作っていた時代があった。そこでは写真を見ることが世界を見・知ることと同義であり、世界は写真に透明に映し出されていた。もしこれを機械の時代と呼ぶならば、現在はテレビというメディアに体現されるように、電気の時代である。何もかも細分化・断片化され感覚的に統合される電気の時代に棲む私たちにとって、そんな時代があったことを肌身に感じるのは困難なことだが、それはそんな昔のことではない、ほんの半世紀程前の話である。その時代を、楽天的な進歩主義が信じられていた時代と言ってもよいし、雑誌『ライフ』に体現されるフォト・ジャーナリズムの時代と言ってもよい。いずれにせよそれはまぎれもなくマーガレット・バーク−ホワイトの時代でもあった。
 今日では、その時代を支えた進歩に対しての盲目的な情熱は、むしろ嘲笑の的となるものである。『ライフ』という雑誌も、バーク−ホワイトも、その偉大さにおいて語られることはない、偉大なるものを信じえた人々がいたことを語る引き合いに出されるのみである。むろん、この人間と機械と真実の調和への信仰は批判されてしかるべきだ。しかし、誰がその時代の盲目性を嗤うことができようか。私たちにしても、今生きている時代に対して盲目的であることに変わりはない。
 マーガレット・バーク−ホワイトの伝記として書かれた本書は、単なる『ライフ』のスター的存在であった女性の物語にとどまるものではない。著者のビッキー・ゴールドバーグは、バーク−ホワイトという女性に、アメリカ史、文化史、写真史、そしてメディアの変容を照らし出している。それが可能となっているのは、バーク−ホワイトがその時代を体現しながら生きたからである。機械に全ての情熱を捧げる父のもとに生まれた彼女は、写真機材や印刷技術の進歩と共に変容し、社会の変動に翻弄されながらもその困難を糧にし、『ライフ』が廃刊される一年前にパーキンソン病と闘った末、他界した。いかに人間と機械と真実の調和が称えられた時代とはいえ、時代とのこの奇跡的な一致には驚くべきものがある。彼女はこう言っていたという。「私の人生も私の仕事も、偶然そうなったものではない、それは完全に考え抜かれたものだ」、と。しかし、著者の言うように、彼女がそこで手にいれた業績・名声といった栄光を他の誰かが手にいれることは二度とないだろう。時代が根底的に変容してしまった今では、栄光もまた断片化され、ある一人が時代を体現するなどということはそもそもありえないからである。
 現在の私たちにとって彼女の残した写真は、あまりに単純で直接的であるゆえ、とるに足らないものにさえ見えるかもしれない。だが彼女の栄光とは、その写真の簡明さゆえにもたらされたものであることを忘れてはならない。そしてこのことが、彼女が人生を簡明に生きたことを意味するわけでは決してないということは、本書の教えるところのものである。