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[写真展・時評9:写真表現とイデオロギーの関係を照らし出す/日本カメラ1991年9月号:130-131]


 写真表現とイデオロギー、この両者の関係は、今日では言説的実践の淵に沈んでいるようには見えるものの、“リアリズム写真"や“プロヴォーク"に見られるように、かつて写真においても表現が政治性との密接な関連の上に展開していた動きがあった。“リアリズム写真"においてはその対象が、“プロヴォーク"においてはその技法(ブレボケ)が、社会的制度に対抗的な表現として位置づけられ、それに写真家・批評家による具体的な政治的発言・行動が絡み合うことによって、そうした動きの言説的実践の場面が形成されていたと思われる。だが、80年代を経験した現在、改めて写真表現とイデオロギーの関係について考えようとすると、私たちは曖昧な枠組みでしかそれを捉ええないことにすぐさま気づかざるをえない。このことは、今日、写真表現とイデオロギーの関係について考えようとするなら、社会的構造そして写真表現の言説空間の変容によって不可視化され、社会的制度と表現との対立的・対抗的構図ではもはや把握しえなくなってしまった、その両者の関係の枠組みを顕在化させる、大胆な捉え返しが不可欠であることを意味するものにほかなるまい。
 ではどのように捉え返せば、写真表現とイデオロギーという構図を今日的状況に活かすことができるのだろうか。そのためにはまず、いっけんイデオロギーとは無関係に見える写真表現の今日的場面に潜在化している政治性を、明るみに引き出す試みがなされなければなるまい。すなわち、いかに今日的写真表現の内的問題がイデオロギーと距離を保ちえているに見えようとも、そうした諸問題を捉えること自体がある特定のイデオロギーによって可能になっているのであり、この意味において、あらゆる写真は例外なく社会・政治などとの絶えざる相関関係の内にある言説的諸機能のシステムとの関連において見出されるものであるということを自覚化する手続きが必要となるだろう。言い換えるなら、写真もまた写真の言説の制度を前提として作られそして語られている以上、そこには必ず何らかの抑圧や不自由が存在しているということが、写真表現の言説的実践の場面において自覚化されなければなるまい。そして、こうして写真表現を言説的諸機能のシステムにおいて考えてみることは、写真に関する考察、とりわけ写真の読みを活性化させるのに有効な諸々の観点を具体的に浮上させる可能性を含み込むだけに、いっそう重要な今日的課題となっているように思われる。
 このような課題について考えようとするとき、『私という未知に向かって-現代女性セルフ・ポートレイト』(東京都写真美術館/6月27日~8月20日)という展覧会が開かれたことの意義も、ひときわ重要なものとなってくるだろう。企画者が述べるように、写真表現の実践的場面はそのはじまりから、〈男性中心の写真界〉つまり〈巨匠とされる写真家も、写真教師も、写真史家も、美術館のキューレーターも、評論家も、アート・ディーラーも、メディアも、その大半が男性によって意思決定をされる世界〉において構築されてきた。つまり写真表現の言説的実践の場面は、男性の視点が自然化されることによって、その関心・その価値が編み上げられてきたと言ってよい。こうした磁場において、女性という立場・女性という視点を想定することは、ただちに次のような問いを想起させるだろう。もしも写真を作る/読むといった体験における写真の意味生産の位相に関わる自己が、女性であって男性でないとき、写真表現における諸々の体験・諸々の意味はどのように変わってくるのだろうか、と。そしてこの問いは、自然化された男性の視点による写真の読みの体系によって覆い隠されている諸問題を、具体的かつ政治的に浮び上らせることによって、写真の言説空間を形成してきた視座が、イデオロギー的価値と分ち難く結び付いた特定の視点によって編まれたものにすぎないことを、顕在化せずにおかないだろう。
 女性という立場・女性という視点を、セルフ・ポートレイトという〈撮影者と被写体が一致するユニークな表現手段〉において考えてみることは、こうしたことを体験的位相における自己の問題において、さらに鮮明に照らし出す。というのも、セルフ・ポートレートという技法は、ほかならぬ自分自身のイメージを写真に描き出し自己確信を得る過程であると同時に、そこで生み出された作品によって他者や社会の承認を得ている(表象としての)自己に出会い、それを前景化する機能を備え持つからである。例えば、シンディ・シャーマンとナン・ゴールディンという二人の、いっけんメイク写真とドキュメンタリー写真といった表現形態の違いを見せる作品を、こうした観点から考えてみよう。〈映画という、一つのメディアからの引用という形を設定〉し、〈メディアが日々垂れ流すイメージから引用〉するシャーマンの作品は、制作の構図において自身が前景化されることによって、映像メディアにおける視覚的分節化の形式の制度性を露呈させる。ゴールディンの作品においては、企画者が従来のドキュメンタリーとの差異を〈ゴールディンの場合は自分自身を撮った瞬間に、写真に収められた光景は過去のフィクションとなる〉ことに見たように、ドキュメンタリーという自然化された形式の内において、自身が前景化されることによって、ドキュメンタリーという形式それ自体がある特定の意味産出の形態にすぎないことが暴き出される。ここで共通しているのは、具体的な身体的自己と主題において社会化され抽象化された自己が逆立ちした関係が露わにされることによって、すなわちセルフ・ポートレイトという技法が、自己を映し出すと同時に他者や社会を映し出す微妙に屈折した鏡として機能することによって、言説的諸機能のシステムの内の写真のイデオロギーが表面化されていることである。
 表現の言説空間に内面化された制度的形式を、受容すると同時に露呈させるこのような実践は、いっけんすると自分が自分であることの調和的関係を揺さぶり、調和的に構築された自己をも二重化された意味の内に宙吊りにしてしまうような過酷さを備えているようにもみえる。だが、今日的状況においては、こういったことはじつはなんら危機的な場面ではなく、具体的な身体的自己と社会化され抽象化された自己とが逆立ちした関係それ自体が、もはや日常の体験的位相によって自然化されたものなのではなかろうか。つまり、他者の視線を内面化した果てに自己を他者化することによって、体験的位相における差異すら消費することは、今日ではすでに当り前になってしまっていることににすぎない。そして、同展が提供する視点が、こうした今日的状況と交錯し、写真表現の内的問題とイデオロギーの関係――社会・政治などとの絶えざる相関関係の内にある言説的諸機能のシステムにおいて写真が見出される言説的諸配置を、実定的に鮮やかに照らし出すのも、まさしくここにおいてである。〈すでに女性といえども現代社会を生きる上で、男の目で見ることは充分に内面化してしまっている〉こと、つまり、女性であることがかならずしも女性という視点を備え持つことを保障せず、じつはたいていの場合すでに男性としての視点が内面化されそれを強いられており、しかもそういったことすらも、消費される差異として解消される今日的状況を、女性という立場・女性という視点において前景化された差異の項目がイデオロギー的価値の配置として浮上させる。すなわち、いかなる差異も自分が自分自身であることの確かさを打ち立てはせず、私たちが自分自身であると信ずるものは諸言説の差異であること、つまり差異とはイデオロギーに先立って存在する超越的な起源なのではなく、私たちがそうであるところの、また私たちが作るところの言説的諸配置であることが、ここに露わにされるのである。
 こうしたことから考えると、写真表現とイデオロギーの今日的関係の枠組みは、写真とイデオロギーが浸透し合った諸相を、表現の内的領域として覆い隠そうとするもしくは無自覚にやりすごそうとする運動性それ自体が、写真表現の内的な言説的実践によって産出されている構図において、まず問い返されなければならないことが明らかになろう。これを端的に言い換えるなら、こうした展覧会についてまったく無自覚的に、「女性の時代が到来した」などとよく耳にする言葉を語ってみたところで、旧態依然とした写真の言説的諸配置の中では、こういった試みはやすやすと再領域化されてしまうだろうということだ。つまり問題は、こうした試みが写真をめぐる言説の秩序、写真を形作っている関心・価値に、何らかの変化を与えることができるかどうかにかかっている。そしてこの問題は、〈何にもまして彼女たちが目指しているのは〉と、企画者が述べる以下のような実践的な諸々の場面に渡る課題、〈「例外的な女性を讃嘆の目で見なければならないような批評のあり方、研究のあり方」、つけ加えるならば、制作のあり方、発表のあり方、教育のあり方など、写真をめぐる環境全般において、問い直すこと〉に重なるものとして、真摯に自覚化され取り組まれなければならない問題にほかならない。