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[写真展・時評7:60年代日本写真の根底的変容とはなにか/日本カメラ1991年7月号:174-175]


 言うまでもなく、歴史とはそれを記述する視点からもたらされる、時間的コンテクストにおける因果関係の意味の網の目である。そしてそこでは、時間的コンテクストをどのような区分によって捉えるかという視点がとりわけ重要なものとなろう。このことは、もちろん写真史についても同様である。東京都写真美術館で開催された「日本写真の転換-1960年代の表現」(4月18日~6月18日)で提案されていたのは、従来的な「戦前」と「戦後」という区分からはじめる写真史の視点を洗い直すことである。〈この写真展「日本写真の転換-1960年代の表現」は、1920、30年代に成立した近代写真以降の流れの転換点を、1945年という太平洋戦争終結の時点におくのではなく、戦後になって写真をはじめていった写真家たちの行為が顕在化してくる1960年代に、その焦点を結ばせようとするものである〉。とすれば、近代写真の成立から今日に至るまでの写真表現の重要な転換点を60年代に見出そうとする同展は、その視点によって、今日の写真表現のありかを間接的に指し示そうとしたものでもあろう。こうしたことを踏まえて見ると、幾度も繰り返し語られ自明化された視点によって逆に不鮮明になってしまっている地点の一つを、新たな視点からの分節によって捉え返そうとした同展は、きわめて今日的な意義をそなえたものだと言えるだろう。
 同展は三つのパートから構成されていたが、その中でも重要な転換点として提示されていたのが、写真展「10人の眼」、セルフ・エージェンシー「VIVO」といった60年を前後した動向を形作った写真家8人(奈良原一高/丹野章/川田喜久治/細江英公/今井寿恵/佐藤明/石元泰博/東松照明)の作品で構成されたパートである。いわゆる「10人の眼/VIVO」の写真家のほかに、この時期活躍した今井寿恵を加えていることからも見てとれるように、このパートは60年前後の写真表現を従来的に「10人の眼/VIVO」の写真家によって語るというだけではなく、より広い表現の実践的場面の根底的変容として見ようとしたものだと言えるだろう。
 では、この根底的変容とはどのような転換点として捉えられるべきものだろうか。このことを考えるために私たちはまず、50年代までの写真表現を基底的に形作っていると思われる「報道写真」の言説的実践の場面を捉え返してみる必要があるだろう。
 新聞・雑誌ジャーナリズムを発表の媒体とするルポルタージュとしての写真、すなわち「報道写真」において、社会的・歴史的コンテクストが表現の基底をなしていたことは、誰の目においても異論のないところであろう。しかし、その言説空間を振り返ってみるとき興味深いのは、「報道写真」がよく言われるように写真の機械的機能としての対象の再現能力のみを十全に発揮すること、つまりたんなる外観を撮すことのみで成り立っていたわけではけっしてなく、そこではそれ以上のものが含み込まれなければならなかったことである。同展の二階で展示されていた、4人の報道写真家(長野重一/富山治夫/桑原史成/英神三)の作品によって構成されていたパートを見ても明らかなように、「報道写真」はたんなる無秩序・無作為な対象、あるいはその機械的再現の断片的な寄せ集めではむろんなく、それが表現として成立するためには、そこにある種の精神構造を形成する秩序が見出されていなければならなかった。一階に展示されていた他の二つのパートとこのパートとを明確に隔てるのは、ここでは表現が社会的・歴史的コンテクストを基盤として展開されていることである。そしてそれは、そうしたコンテクストを形作る主題となる対象をたんに再現することではなく、社会的・歴史的コンテクストを主題に沿って対象に表象する方法によってはじめて成り立つものであった。こうした「報道写真」において重要となるものは、そこでの主題を形作る社会的・歴史的コンテクストを、より忠実に、 より生々しく、写真にある種の精神構造として内在化する方法だと言えるだろう(主題を構成するストーリー、例えば方法としての組写真が「報道写真」において重要とされるのは、この意味においてにほかならない)。したがって、「報道写真」の表現には、たんに対象についてのものばかりでなく、人間性なるものや社会関係についての意識が含み込まれていることになる。このことはさらに、“絶対非演出の絶対スナップ"という言葉に象徴されだろう、土門拳によるリアリズム写真運動の提唱を思い浮かべてみると、いっそう明らかになろう。土門はなぜ“非演出"“スナップ"という言葉に、“絶対"という強調を付さなければならなかったのか。それは、社会的・歴史的コンテクストが基底をなす写真表現においては、たんに対象が再現されているだけではなく、それをより忠実に、より生々しく写真に内面化することが要求されていたからにほかならない。
 さて、「報道写真」が社会的・歴史的コンテクストを基底に置きながら、方法としてはルポルタージュとしての枠組みの中で表現を展開していたのに対し、いわゆる「10人の眼/VIVO」の写真家の作品は、個々人の既存の写真の在り方に対する捉え返しがその展開を可能にしたと言われる。このことは、いったい何を意味しているのだろうか。
 いっけんすると、「10人の眼/VIVO」の写真家の作品は、それまでの「報道写真」に比べて、より自由な写真表現を展開しているように見える。だがここで、「報道写真」が対象を忠実に再現することで成り立っていたわけではなく、社会的・歴史的コンテクストを写真に表象することで、写真に現実としての効果を産出させていたことを思い返すならば、「10人の眼/VIVO」の写真家の作品は、そうした表現の構図から何ら解き放されたものではなく、むしろそうした構図をより徹底化することによって個々のコンテクストを展開したものだとは考えられないだろうか。例えば奈良原一高は、広角レンズによるデフォルメを多用して軍艦島とそこに住む人々を撮すことによって、「人間の土地」という隠喩的な題名から展開される物語を写真に表象する。東松照明の「〈11時02分〉NAGASAKI」は、画面内で異なる意味を担う対象をモンタージュすることによって、被爆地長崎を物語ろうとする。また、川田喜久治は、対象を写真において平面的に捉えることで象徴化し、日本の戦後を寓意的な「地図」として写真に表象する。そして、こういった個々の作品における写真とコンテクストの強固な関係を、このパートで展示されていた他の写真家の作品から見出すことは、さして難しいことではあるまい。こうして見てみると、どう見てもそれらはコンテクスト、意味の体系から解き放された自由な表現だとは言い難いように思える。
 では、「報道写真」と「10人の眼/VIVO」の写真家の作品との間にある決定的な転換点とは何だろうか。それは、ここでは写真表現の実践的場面を基底的に支えるコンテクストが、社会的・歴史的なものから、生きられた経験に基づいた個々人が描く心的イメージへと根底的に変容していることにほかなるまい。つまり、ここにおいて写真表現の基底的位相が社会的・歴史的コンテクストから、時代的・文化的コンテクストへと変容しているのである。このことは、63年頃から「カメラ毎日」を舞台に作品を発表しはじめるコマーシャル写真家5人(篠山紀信/立木義浩/横須賀功光/深瀬昌久/柳沢信)で構成されていたパートの作品についても同様に当てはまることであろう。
 したがって、60年代を転換点として登場してきたそれ以降の写真家の作品において積極的に捉えられるべき点とは、たんに写真表現を、「報道写真」における、より忠実に、より生々しく、というような社会的・歴史的コンテクストから引き出された、最大公約数的な価値の審級から解き放たれたところで展開したということではむろんあるまい。そうではなく、むしろ重要な今日的課題となるのは、そこで個々の写真家が個別の展開において抱え込んだ具体的な不自由、つまり写真とコンテクストとの関係を改めて考察することにより、それ以降の写真表現が個々の作品にどのような時代的・文化的コンテクストを内在させ、かつそこで写真表現の実践的場面そして言説空間がどのように編み上げられてきたのかを捉え返すことにほかなるまい。というのも、今日の写真表現においても私たちはそうした不自由を少しも免れているわけではなく、写真表現は写真とコンテクストの密接な関連のうえに依然としてあり、ここでの表現もまた既存のコンテクストの言述を複雑に再加工することで展開されるほかないからである。