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[写真展・時評6:進歩という観念/芸術という観念/日本カメラ1991年6月号:130-131]


 電子メディアによるコミュニケーションが担う役割が今日ほど重要視されている時代は、かつてなかっただろう。改めてここで指摘するまでもなく、それが社会の隅々にまで影響を与え、根底的な基盤に大きな変容をもたらしていることは疑いえない。そこでの事象を総称して、今日の社会を高度情報化社会と呼ぶのは、もはや当り前のこととなっている。
 NTTによる『インターコミュニケーション´91-電話網の中の見えないミュージアム』(3月15日~3月29日)は、そうしたメディアを使った〈世界で初めて、電子情報網の中に文化発信ネットワークを組み入れた、まったく新しいスタイルの文化イヴェント〉を標榜して開催されていた。写真家が関係していたものをいくつか例にとるなら、「ヴォイス&サウンド・チャンネル」の「センチメンタルな旅~冬の旅:荒木経惟」では彼自身が同名の近著について話し、「見えない、東京NUDE:篠山紀信」では撮影現場の音声を再生していた。また「ファクス・チャンネル」の「EL espacio poseido/The possessed space:ハヴィエル・ヴァロンラット」や「DANCING SKELTON:田原桂一」などからは、作品が送信されてきた。なるほどこれは〈文化イヴェント〉としては〈新しいスタイル〉のものかもしれないが、そこで触れることのできたそうしたいくつかのメッセージには、別段新たな展開が提出されていたわけではなかった。当然のことながら、それらは電話回線を通して送られてくる作家や批評家などのメッセージ(作品、対談、解説など)にすぎず、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 だが、ここで問題としなければならないのは、電子メディアを用いたものにもかかわらず、そこに新たな展開を見出すことができなかったといったことではないだろう。むしろ問われなければならないのは、もし私たちがこのような電子メディアによる試みのなかに直接に新しい何ものかを何らかのかたちで期待していたとするならば、それは多かれ少なかれ《進歩》という観念を未だ信じざるをえないでいることの証しにほかならないということである。では、《進歩》という観念とはどのようなものだろうか。
 私たちが過去を振り返るとき、すでに起こった出来事の集積の総体をその対象として想定しがちである。つまり、過去とは事実の総体であり、そこに種々の解釈の相違はありうるが、過去そのものは動かぬ対象であると。だが、過去について語ることとは、そのようにある対象に向けた解釈にすぎないのだろうか。過去を振り返ることとは、現在を過去を原因とした結果として、出来事を時間的コンテクストの内の因果関係として捉えることである。逆に言えば、過去について語ることとは、諸々の出来事を因果関係として捉えることで、時間的コンテクストを生じさせ、出来事に意味を与える営為である。つまり、過去とは対象としてあらかじめ存在するわけではなく、それとは逆に、過去について語ることの意味それ自身がその都度立ち上げる時間的コンテクスト・因果関係によって構成される対象であると言えよう。これは経験しえなかった過去一般についてのみならず、自らが経験したことという最も基底的なレべルにおいてもそうである。私たちが経験したことの意味は、現在をどう捉えるかによって容易に変化する。のみならず、現在から見たときに対象化されなかった出来事は、経験として捉えられることもないだろう。
 したがって、過去とは、私たちが思い浮かべがちな事実の総体としての動かぬ対象ではけっしてなく、常に現在の種々の解釈が編み上げる意味の網の目、すなわち物語としてもたらされるものである。基底的なのは、事実としての経験ではなく、逆に、経験を物語として練り上げる、語ることという営為である。そしてこのことがまさに、私たちの経験を現在にとって意味のある、終わりのない有意義なものたらしめている。しかしながらこれに対して、《進歩》という観念は、諸々の出来事を、現在という結果を整合化する原因として捉えるヘーゲル的な完結した歴史観を常に前提としている。それは、過去を完結した終わりとして見ることで、あらゆる意味を契機・段階として包括し、それをある目的、あるいはかくあるべきであるという理想に統合していくような歴史観である。つまり、物語として見出されるあらゆる時間的コンテクスト・因果関係を、目的・理想のもとに統合することによってもたらされる前のめりの運動性が《進歩》という観念であると言ってよい。このような観念において暗黙に要請されているのは、過去のすべてを一挙に把握しうるような視点である。それがなければ、諸々の出来事が終わりから見渡され、契機・段階として捉えられることもありえない。だが、いったいどのような者が、過去の総体を一挙に眺めうるのというのだろうか。《進歩》という観念は、完結した歴史観における超越的視点によって吊り支えられているものにすぎない。
 むろん、今日において、語ることとは常に超越論的である。外部に可能性としての意味・物語を見出すことが、私たちを語らしめている。このことは、今日における表現とはどのようなものであれ物語られる表現であり、表現についての表現、すなわち表現論的な性格を帯びているということと無縁ではない。それは、どのような批評/作品でも、自明の文脈を前提に表現にかかわることはできないということである。作品を作ることは、どのような文脈において作るかを問うことをおいてはじまることはできないだろうし、作品について語ることは、なによりもまずそれをどのような文脈に位置づけるかを問うことをおいてはじまることはできないだろう。つまり超越的視点によって自明化されていた諸々の出来事の関連を、自明化されえぬ物語の外部性によって超越論的に問うことが、今日においての批評であり作品であると言ってよい。この意味で、目的・理想にそって出来事を統合する歴史観を暗黙の内に持ち込み、現在を超越的に吊り支える《進歩》という観念を無自覚に前提としているような表現観は、今日的(コンテンポラリー)な表現からもっとも遠いものになっているのではないだろうか。
 ところでここで、先に開かれた『PARCO PROMISING PHOTOGRAPHERS 3』(パルコギャラリー 2月15日〜3月12日)を、『インターコミュニケーション´91』と比較してみると、それは、特定の場所で行われる展覧会に対して電話回線を通して開かれるミュージアム、写真というもはや古びてしまったメディアに対して電子メディアというふうに、いっけんするとあらゆる意味で正反対の企画展のようにみえる。しかし、もしこの企画展においてその枠組みを自明なものと受け取ってしまうなら、そうした見かけの対立的な構図にもかかわらず、ここでもまた自明化された観念、《芸術》という観念がこの展覧会の言説的実践の場面の根底を支えているとは考えられないだろうか。《芸術》という観念とは、端的に言うなら、イデアとしての美が先験的に事象に内在するとみなすような観念である。
 今回で3回目の開催となったこの展覧会は、ポートフォリオによる審査で20人前後の出品者を選出し、展覧する形態において開かれる公募展である。そしてやはり、ここで問われなければならないのは、それぞれの作品が将来的に期待されるべき“才能”や“作家性”を備えているのかどうかといったことではなく、なによりもまず、そうした意味での新しい“才能”や“作家性”を見出だすことを可能にしているこの展覧会の文脈それ自体ではなかろうか。例えば、コンテンポラリーな表現を対象とするこうした公募展、あるいはそれに向けて作家が提出するポートフォリオといった形態が、ここでの“作家性”や“才能”を保障しているのであって、その逆ではない。しかもそうした形態は、日本の現代写真においてはたかだかこの十年来で形成された制度的枠組みにすぎない。そうした制度的枠組みが自明なものではありえないにもかかわらず、“才能”や“作家性”を自明化してしまうことによって、ここでの制度的枠組みを自然なものと捉えてしまうならば、それは何らかのかたちで《芸術》という観念を持ち込んでいることにほかなるまい。
 もちろん今日では、諸々の実践が《進歩》や《芸術》という観念に直接向かっていくことはむしろ珍しいことである。しかし、だからといって、《進歩》や《芸術》という観念が今日の表現をいささかも支えてはいないと言えるだろうか。80年代に入ってからの多くの表現論において語られたことは、歴史や伝統の制度的言説からの脱却であり、その言説的実践の場面でなされた“戦略”は、歴史や伝統を支える《進歩》や《芸術》という観念の前提となる目的意識を一義的に退けることであった。だが、語ることが出来事にコンテクストや因果関係を与えることである以上、目的論的配置を持たない言説など実践的場面においてあるはずがない。しかしそうした“戦略”は、原理的に自らの実践が抱える目的論的配置を問いえない。それが実質的に形成したのは、目的的な表現意識を軽蔑することであり、さらに表現の意味との戯れに耽ることで自己意識の優位を自明化する構えである。だが、それこそが伝統的な、現在を目的・理想のために絶えず無化する完結した歴史観に根ざしたものであり、制度的枠組みを常に追認していく構えにほかならないのではないだろうか。たしかに高度情報化社会と呼ばれる今日の社会は、かつてと根底的に変容しているだろう。それは一言で言えば、意味の対立から生じる差異と戯れることで、差異を量的なものとして相対化させ結果的に意味を解消していくような運動性においてある。そこでは出来事が差異化していくように見えるが、対立的意味が取り除かれたそうした地平では差異は限りなく平板化していく。これをここしばらくの写真の状況と重ねてみるならば、それは表現が差異化・活性化しているように見えながら、実践的言説の場面では表現が限りなく平板化・一元化されていることに見合うものである。
 二つの対照的な展覧会を例にとって考えてみたが、ここで指摘したかったことは、こうした企画展を考える場合、それがどのような文脈においてなされているかを考えるとともに、それをどのような文脈で自らが捉えているかを自覚しておくことが重要だということである。例えば、企画展において、その文脈を外しておいて、個々の作品から展覧会を読むような姿勢は常に転倒している。なぜなら、私たちはそうした企画展が開かれなければ、そうしたかたちにおいて個々の作品を見ることはありえず、その意味で、企画の文脈と作品の文脈は切り離しえないものだからである。そして、そのような転倒を自然なものにみせているのは、《進歩》や《芸術》という観念に限らず、必ず観念化された外部である。しかし、繰り返して言うならば、今日的(コンテンポラリー)な表現とは、そうした観念化され凡庸化された物語を疑うことからはじまるべきものではなかっただろうか。そしてそれは、強力な外部としての物語に対立的な物語を、自覚的にいかに編み上げられるかということと同義であることは言うまでもない。