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[写真展・時評1:写真は言語的秩序を拒絶する?/日本カメラ1991年1月号:146-147]


 ここ数年で、写真状況は大きな変容を遂げたように見える。そしてこのことを、80年代後半から今日にかけて、規模の大小にかかわらず写真にまつわる企画展・出版物などが多く世に送られたことを抜きにしては考えることはできないだろう。というのも、こうした出来事はそれを歓迎するか否かにかかわらず、写真に関わる者が例外なく属するある種の地平を現実的に形成するところのものだからである。そしてこの変容は、写真を見ること、そして例えばこうして写真についてのなにごとかを語る位相にとどまらず、制作/発表ということを含み込んだ意味での写真を撮り/作る位相にも大きな変化を与えているように思えてならない。
 むろんこの変容は、さまざまな位相での写真の変化によってそれが顕在化したのがここ数年なのであって、ここ数年の状況においてのみ導き出されたものではないだろう。それを捉えるために時代を区切るならば、そうした変容を導き出す一定の磁場は70年代から80年代、そして今日にかけて布置しているものと考えられる。なぜなら、写真の独自な表現を見い出そうとしてきたのがプロヴォーグ以後、すなわち70年代以降の写真であると捉えてみるならば、そうした磁場はつねに写真が自らの価値を内在的見い出そうとする運動性のもとにあり、それ以降の写真、あるいは写真についての言葉は、それがどのようなものであろうとも、また意識するか否かにかかわらず、たんなる写真ではなくカッコ付きの「写真」、すなわち写真論的な問いを含み込まずに写真の文脈に位置することはありえない地平に属していると考えられるからである。そして、このような写真の自足性の要求のもとにある運動性は、互いを乗り越え乗り越えてられていく様式的な変化をもたらすものであると同時に、その前提となる価値概念を自らの内に強固に刻み込むものとしてある。
 したがって今日、写真について考えるのならば、そこでの価値概念の様相を考慮に入れずに語りはじめることはできないように思われる。具体的には別の機会に触れることになると思うが、現在の写真にまつわるさまざまな言葉を見渡す限り、そこはひとつの等しく共有されているような写真を捉えるうえでの了解、端的に言うならば《写真は言語的秩序を拒絶するものである》と集約されうるような了解が布置しているようみえる。むろん、そのように集約されうるような了解は、それぞれの写真にまつわる言葉によって、それが占める位置も比重も異なっているが、ここで考えてみたいのは、それぞれの言葉の微細な関係でもなく、またその妥当性でもなく、それを語っているのはほかならぬ言語ではないかと問われればたちまち不整合を示しかねない《写真は言語的秩序を拒絶するものである》と集約されうるような了解が、まさしく写真においての言説的実践の場を形成しているということについてである。つまり、そうした了解もまた言語によって語られるものであることを考えるならば、そうした了解に属する言葉は、写真についてのなにごとがを言い当てようとするものであるとともに、それが機能しうる言説的実践の場を支えまたそれによって支えられているということであり、ここでの課題は、そうした了解に従って写真にまとわりついている言語から遠ざかることによって写真を見い出そうとすることではなく、むしろ積極的に写真においての言説的実践の場、つまり写真と言語の関係の場を考察していくことにおいて措定されるべきであろう。
 こうしたことを踏まえて考えるならば、70年代から今日に至るまでの写真の変容は、写真の独自な表現を見い出そうとしてきた過程であるとともに、写真の文化的・社会的価値観の再編の過程であると言うことができるだろう。つまり、その間写真が経た、さまざまな様式的な変貌と取り扱われる場の変化は、たんに写真表現が活性化し裾野が広がったということではなく、つねに価値観の再編を孕んだものであったと考えられる。ここ数年の写真状況で言うならば、日本の近代写真の再評価における出版物や企画展、写真誕生150年における写真の歴史にまつわる企画展、「写真と美術」という言説を下地とした種々の企画、『光画』や『FRONT』の復刻、そして90年になってさらに増加した写真についての展覧会・出版物なども、そうした価値観の再編における関係とけっして無縁ではありえないはずである。そしてこのような出来事からひとつ確認できるのは、今日の写真においては、立ち戻り参照すべき普遍的価値が固定的にあるわけではなく、古典と呼ばれる作品すらも例外ではなしに年代が移るたびに価値が再編・再生産されなければならないということのように思える。
 そのことを痛切に感じさせる展覧会として、私たちは『写真の過去と現在』(東京国立近代美術館)を思い浮かべることができる。「過去と現在」という言葉からは、それが歴史的な軸における企画であろうことが容易に想像されうるのだが、企画者が「われわれの関心は、かならずしも個々の作品の歴史性にはなかったことを告白しておこう」「われわれの注意は個々の作品のもつ、歴史的・社会的文脈の復元によっては近づきえない部分に注がれていたのであり、われわれはむしろ努めて、同時代の作品を見るのと何ら変わりのない眼で過去の作品をも見るようにした」(同展カタログ)と述べるように、この展覧会は〈写真の過去と現在〉〈モダニズム/写真の美学〉〈表現と記録〉〈揺れる写真〉〈不在の形式〉という、およそ歴史的軸の構成を期待するのは困難な、そして互いに重なり合う部分を持ちながらも章ごとで扱う位相が異なるために断片的にみえる五章から構成されている。そして、それぞれの章に位置づけられる1920年代から今日までの日本・海外の写真も、それぞれの作家・作品が属していたであろう文化的圏域が重要視されないのはもちろんのこと、例えば、安井仲治の作品は〈モダニズム/写真の美学〉〈表現と記録〉の二章に渡って位置付けられ、小石清の作品は〈モダニズム/写真の美学〉ではなく〈表現と記録〉に位置付けられるといったふうに、従来的な分節化からは隔たっているようにみえる。こうしたいっけん奇妙な印象を与える企画展における分節化が、どのような写真的領域を形成するものであるかは興味があるところだが、ここではとりあえず、このような分節化を可能とするような地平はどのようなところからもたらされているのかを考えてみることにしよう。
 70年代から今日に至るまでの写真においての言説的実践の場の大きな変容としてひとつ考えられるのは、一言で言ってみるなら、写真の意味をある文脈へと意識的に置き換えていくことから、写真の意味をあるメタファーへと圧縮することへという、写真と言語の関係の場の変容であるように思われる。それはまた、『写真の過去と現在』で強調される「同時代の眼、同時代の関心」という言葉における「同時代」という写真の捉え方、すなわち価値概念における様式ではなく、様式的な更新によって価値概念がもたらされるような、歴史的価値を相対化したうえでの並列的な写真の捉え方への変容に通低しているものであろう。しかし、このような変容もまたある言説的実践の場として機能せずにはいないことを考えるとき私たちが見い出すのは、写真は事物の再現という機能によって意味を拘束されるようにみえながらも、むしろそれゆえに過剰な意味を担うことによって、同時に自己完結的な機能を持ちうる装置であること、そしてこの自己完結的な機能は、容易にシンボリズムとしてのメタファーへと通じうることであろう。80年代に入ってから、そのような言説的実践の場への移行を促したもののひとつとして、ここで私たちは伊藤俊治が成しえた仕事の重要性を忘れるわけにはいかないだろう。
 はじめての著作『写真都市』のあとがきで伊藤は、彼が写真に関心を寄せ、この本を書き出していく過程を次のように言っている。「一美術史学徒として十年近く西洋近代の美術を学びながら、ぼくは、二重、三重にクッションを張りめぐらされ、閉されたその学問制度に対して、いつのまにか、どこかで満たされぬものを感じ続けていた。特に二〇世紀美術を専攻しようと、多様で激しい変転を繰り返すその運動や作品を漁り続けていたぼくは、新古典主義やロマン主義から始まって印象派、キュビスム、未来派、抽象主義、表現主義、ダダ・シュルレアリスム……と美術を線の流れとして一方的に体系に回収していく従来の美術史の手つきや、細分化と専門主義へ突き進んで時代のダイナミズムや個々のアーチストたちのゼリー状の共感覚を見られなくなってしまうその学問構造に大きな疑問を感じ始める」。そしてこれに続けて、「ぼくは写真が純粋な“不在のまなざし”であり、人間の視線が完全に意味を持たなくなる空間のありかを指し示して十九世紀中葉に突出してきた予言的現象であり、十九世紀から二〇世紀の美術は、『表現』とか『芸術』とかといった言葉を無効にしてしまう『写真』にひとつの異次元の鏡や窓を見ながら、それをあるときは吸収し、またあるときは反射して運動してきたのだと感じるようになっていった」と言う。ここで語られていることは、美術史のその学究的な視点による歴史観からは、その時代におけるダイナミズムやアーチストの共感覚を見い出すことができないと感じたこと、しかし写真的なるものに出会うことで、そうしたところにおける言葉を無効にしてしまう「写真」に可能性を見い出だしえたこと、であろう。その後、伊藤が写真と都市を重ね合わせることで切り開いた地平は、「都市はぼくにとって常にある映像の集積体としてあった」「東京もまた映像の集積体である」(『東京身体映像』)といった彼自身の言葉によってよく示されているように思える。さまざまな写真は彼によって、その過剰な意味をシンボリックな「都市」へと圧縮されていく。そのはじまりとしての『写真都市』はすでに84年に出版されているが、このような地平における言葉が実践的言説の場を形成している今日では、その位置はけっして一様ではないがシンボリズムとしてのメタファーの内に写真を捉える言葉を見つけるのはさほど難しいことではない。例えば、「書かれたものでしか知らない壮大な歴史が、具体的に見えてきたのを感じたかれらは、事件の記録という次元をこえた、時をこえた大きな世界空間を表現しようとしたのではないだろうか」(『写真の過去と現在』)、「そこには『世界都市』へのヴィジョンが問われる今日の都市の原像がみてとれるのではないでしょうか」(『都市の風景』東京都写真美術館)〔強調引用者〕というように。またあるいは、「写真は彼らにとって単なる経済的な表現手段であり、それ以上に生産=消費の回路を象徴的に体現する身近な工業製品である。彼らの作品に用いられる写真イメージは、それを生産・伝達し、われわれの中に幻想のリアリティを成立させるマス・メディア=消費社会という巨大なシステムの象徴的な断片なのである」(『移行するイメージ』東京国立近代美術館)というふうに。
 たしかに、従来的な意味での「表現」や「芸術」における分節化は今日ではその有効性を失っているように思える。それは、そのような分節化のもとでの言葉の機能が失われたことにほかならないだろう。しかし、だからといって、従来的な「表現」や「芸術」を支える言説的実践の場もそれとともに消滅したと言えるだろうか。写真の言説的実践の場は、では今日どのように変容し、「表現」や「芸術」という言葉はそこでどのような位置を占めているのだろうか。私たちは、《写真は言語的秩序を拒絶するものである》と集約されうるような了解に属するような言葉においてなにが語られ、そこでどのような磁場が形作られたのかを再び考えてみる必要があるように思える。