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[写真の規則19:読み/語ることをめぐって/FILM ROUND GAZETTE 1991年9月号:4]


 写真を見る、と私たちは言う。見る、と言ったとき、それに連なるのが言葉であるように、私たちはけっして見ることそれ自体を語ることはできない。だが、だからといって、私たちは見ることを語りえないわけではない。げんに見た写真について語ることは、何の驚きもなく日々交わされている。同じように、私たちは語ることそれ自体を見ることはけっしてできないが、じっさいに私たちは写真を読み/語りながらそれを見ている。
 写真を見、そして語る。こう言ったとき、私たちは、写真があり、それを見、語るという順序だった形を思い浮かべがちである。しかし、じっさいにそのような形で写真を見る/語ることがあるだろうか。現実には、どんな些細なときでさえ、私たちは写真を見つつ語り、語りつつ見ているのである。見ることと語ること、この相容れない二つの事柄が互いに干渉する領域でこそ、私たちは写真を見/読み/語っている。重要なことは、便宜上、見ることと語ることを分けて考えることはありえても、現実にはその両者を分けつつ写真を見、語ることなどありえないということだ。
 ところが、写真を見ることを考えてみようとしたとたん、私たちはそうした順序だった形を思い浮かべてしまう。解釈以前の、写真を見ることの楽しみといったことや、言葉にできない魅力を写真に見出すといったことは、おそらく、ひとつはそうした形に由来した考えである。だがこうしたことを語ること自体が、見ることと語ることのひとつの関係を物語っていることを考えるなら、それもまた、見ること、語ること、その両者の関係から引き出されるものにほかならない。私たちは、写真を見るという経験なしにそれを語ったり、写真を語るという経験なしにそれを見ることはない。つまり、いかなるときも現実的なのは、見ることと語ることが互いに干渉する領域にほかならない。写真を語ること以前に見ることがあるのではなく、写真を語ること以前に見ることがあるわけでもない。見ることそれ自体や語ることそれ自体といったことは、ある形から引き出される概念であって、それが現実に遡って根源的であるわけではない。
 すると、写真を見、そして読み/語る、といった営為とはどのようなものなのだろうか。見ることと語ることが互いに干渉する領域とは、一方で写真を見ることや語ることを規制し規則づける領域であるとともに、他方で見ることや語ることの契機となる磁場である。私たちは、写真を見、そして読み/語る。しかし、それは何らかの意図にそって、見たり読んだりするということだろうか。むろん、ある意味ではそうだろう。だが、それはけっして意図するままに、見、読み語れるということではない。写真を見、読み語るという営為は、見ることと語ることが互いに干渉する領域から自らの写真に対する何らかの営為の契機を導き出す実践であり、かつ同時に、そうした領域に微細な変容を与えつつ自らの営為を位置づけることである。写真を、見、そして読み/語る。私たちは、むろんそれをある意図にそって行うことができる。だが、それは思うままにではない。じっさいには、写真を見、そして読み/語る、そしてそれを自身がすぐさま聞き/読むことによって、私たちは言ったことの意図を、あるいは意味をはじめて回収するのである。見る、語るといったある営為は、それ自体でけっして意味を担うことも、意図づけられることもない。見ることと語ることが互いに干渉する領域、諸条件から定位するとともに変容する特定の実践的領域においてはじめて、意味も意図も生じうるのである。
 つまり、どのような点においても、見ること、読み/語ることが、それ自体で成り立つことはない。そしてこのことが、実践的領域が、規制し規則づける領域として機能するとともに、また、諸々の実践の契機として、さらに、領域自体の変容の動力としてあることの理由でもある。すなわち、何を意図して、あるいは意図せずに、写真を見、読み語ろうとも、私たちはそのさなかで、自らが何を意図し意味したのかをけっして知ることができない。それを自身で聞き読むこと、つまり、実践的領域の中で自らの営為が何を意味をしたのかを知ることによってはじめて、自らが何を意図し意味したのかを知り、連鎖する営為へと結び付けるのである。そして、このいわば二重化された非対称的領域こそが、実践的領域におけるあらゆる営為が属するところのものである。
 逆に言えば、どのような営為でさえ、写真をたんに見、たんに語るといったときにさえ、私たちはこの実践の非対称性のさなかにいる。見たと思っていたこと、言ったと思っていたこと、それが意味である以上、それが自身にあるいは他者に受けとられないかぎり、私たちは、見たこと言ったことが何であったかについては、つねに盲目的なのだ。つまり、何を言ったのか、それがさらに読み語られない以上、私たちは自身が言うことで何を語り示したのか、けっして知ることができない。
 したがって、こうした非対称的領域、実践的領域を遡って根源的であるものは何もない。そして、そう捉える限り、あらゆる表現論的問いも、二重化されざるをえないだろう。すなわち、まさに私たちが属するところの実践的領域がどのような構図になっているのかを問うことと同時に自覚化されなければなさないのは、そう考えること、それを示すことがどのような構図に属するものであるか、という問いにほかなるまい。