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[写真の規則18:写真の文脈について/FILM ROUND GAZETTE 1991年6月号:4]


 たしか、どこかで誰かが次のようなことを言っている、〈奇妙なことに、言い直すこととは、いつも付け加えることである〉、と。それと似た意味で、写真にまつわる実践的場面を振り返るとき、いかにそれが従来的な文脈を否定しようとしているように見えても、また、いかにそれが今日から見て空虚なものに見えようとも、それらはけっして何かを切り捨て得ているわけでも、何も語っていないわけでもない。そこにあるのは、従来的な何かを切り捨てようとすることで編み直される何らかの事象であり、何も語っていないに等しいとみなすことで編成し直される言説である。つまり、諸々の実践とは何らかの形で従来的な文脈を〈言い直すこと〉であり、それは従来的な文脈に新たな意味を〈付け加えること〉によって文脈を再編することにほかならない。
 例えばこういう言い方がある。〈写真はこれまで、自己を映す鏡か社会を見る窓かという二項対立的問題に囚われてきた〉。これはある程度従来的な写真の文脈の問題構成を言い当てているとも言えようが、そこで言及されていることから想像される形での二項対立的問題に、写真が果たしてこれまで囚われてきたのかどうかはあやしいところがある。しかし、重要なのは、その言述の妥当性を従来的な文脈に対比的に照らし合わせることで問うことではけっしてなかろう。なぜなら、結果から見るなら、そこでの従来的な文脈とは言述の目的論的配置にそってなされた特定の捉え方によるものであり、例えば〈写真はこれまで、自己を映す鏡か社会を見る窓かという二項対立的問題に囚われてきた〉という言述に対して、どのような反証を企てようと、その反証は従来的な文脈をより緻密と思われる形で復元しようとすることは可能であっても、十全な復元は不可能である限り、やはり目的論的配置をまぬかれてはいないからである。再構成された文脈それ自体は何の規範ともならないうえに、再構成の結果そのものの妥当性を問題としようとするなら、むしろ、そこでの目的論的配置が覆い隠されてしまうだろう。例えば、〈写真はこれまで、現実を写す鏡か世界を解釈する窓かという二項対立的問題に囚われてきた〉という同じような言い方がある。しかし同じような、と言えるのは〈写真はこれまで−−二項対立的問題に囚われてきた〉という言述に限ってであって、〈自己を映す鏡か社会を見る窓か〉と〈現実を写す鏡か世界を解釈する窓か〉では、従来的な文脈を分節化して捉えらえる視点が大きく異なっているとも言えよう。しかしその両者の差異にのみ固執することは、ここに例示した二つの文に見られる限りでの〈写真はこれまで−−二項対立的問題に囚われてきた〉という同一的な一点としての目的論的配置を見逃してしまうことにもなるのだ。しかしながら、もしこれに対して〈写真はこれまで−−二項対立的問題によって可能性を拡げてきた〉という文を対置するなら、さらにそれは別の目的論的配置に同一的に位置づけられうる差異を示すものにもなろうし、同じようにここで同一的に位置づけられうる差異とみなした〈自己を映す鏡か社会を見る窓か〉という部分こそが何らかの目的論的配置を担っていると言うこともできよう。このように考えてみると、あらゆる実践的な営為は果てしなく循環し、同語反復的な構図を描いていくのみのようにも見えるし、ある意味ではその通りである。なぜなら、ある言説的実践が意味/意義を担うのは、ある文脈を作り出しつつそれに言及的であり、かつ、言及の対象になることによってにほかならないのだから。しかし、このことを注意して考えてみるならば、同語反復的であることは自己完結的な循環であることを全く意味しないばかりか、事態はその逆であることが明らかになってくる。つまり、ここでは実践的営為が同語反復的であることは、従来的な文脈を完結的に捉えることというよりも、従来的と言われる文脈に言及的であることによって循環的な構図それ自体を再編することであり、かつ営為そのものの文脈を言及可能な契機として内在化することにほかならないからである。これは、ここでの対立的に階層をなす恣意的な例に反して、実際の実践的場面においては、諸々の言説が必ずしもこのように明確な対立的言述によって意味/意義を担うわけでも、さらにそれによってこのような明確な階層を描くわけでもないことからも明らかであろう。
 要するに、こういうことだ。例えば、〈写真はこれまで、自己を映す鏡か社会を見る窓かという二項対立的問題に囚われてきた〉という一文は、それのみではけっして何も意味しない。それは、何らかの文脈に言及的であり、かつそのことによって自身が言及される可能性を含み込むことにより、はじめて意味/意義を担いうる。すなわち、この一文は立ち返るべきを対象としているわけではなく、立ち返るべき事実とされる文脈を何らかの仕方においてすでに内包しており、その仕方によって自らが位置づけられるべき文脈を可能性として内在させている、それ以上でもそれ以下のものでもない。したがって例えば、この一文から容易に想起されるであろう、「鏡と窓」という展覧会がこれに何らかの関連を持つとするならば、それは、「鏡と窓」という展覧会が立ち返るべき事実として在るからでも、“鏡と窓”という言説一般のいわば起源としてみなされうるからでもなく、その一文がまさに何らかの関心によって読まれることによって、そこから言及される可能性としての展覧会としての「鏡と窓」や言説としての“鏡と窓”が顕在的なものとして引き出されるからにほかならない。
 私たちは、何らかの事象が立ち上がったときに、それをあたかも先験的な対象としてみなしがちである。しかし、そうしたものとして事象を捉えようとするまさにその時に連続的に自明化されてしまうのが、その事象を浮かび上がらせている実践的営為の布置や自らの視点そのものである。だが、すでにみたように、諸々の実践的営為の外には隠されたものは何もありえず、したがって自明視されてしかるべきものなど何もない。例えば、19世紀の写真をめぐって交わされた数々の言述を考えるのに重要なのは、ただ19世紀の写真のありかを求めることではけっしてなく、むしろ同時にそこでどのように19世紀の写真なるものが語られうるものとして編成されているかを考えることであろう。なぜなら、19世紀の写真が捉えられてる実践的営為の布置は、たかだか数十年前に語られたものと今日のものとではすでに大きく違っているのだから。
 いかに従来の文脈が種々の断絶によって変転しているように見えようと、また、それが今日から見ると空虚なものに見えようと、そういった文脈の形が何もなされないこと、語られないことによって形成されたことはけっしてなかった。文脈の変転とともに、諸々の断絶に横たわっている実践的営為、そして語りえないとされることがいかに饒舌に埋められてきたかが実定的に見据えられなければならない。