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[写真の規則17:写真の始源的なものについて/FILM ROUND GAZETTE 1991年5月号:4]


 写真が発明されたときの驚きを私たちは忘れている、これはよく言われることだが、こうした言い方が幾度となく繰り返されるとき、まず疑ってみるべきことは、そうして語られる自明化された“驚き”ではないだろうか。例えば、この驚きは従来の再現的と言われる媒体に対して、写真が機械的再現によってもたらされることに結び付けられる。つまり、それは手による再現においての一連の認識論的地平に機械的再現が与えた異和であると。注意しなければならないのは、そういったことは今日の認識論的地平に立ってはじめて引き出されうる視点においてあり、そう語ることで私たちは“驚き”を経験しうるわけではないということだ。これは当たり前のことだが、こと写真の始源的な事象にかかわる考察においては、しばしばそれは自明化され、それがある一つの可能な物語にすぎないということが忘れられがちでもある。
 このような自明化された写真の始源は、写真を過去に遡って捉えているようにみえて、そうではない。この場合、感覚的レヴェルである“驚き”を定式化しているのは機械性であり、そのいずれも直接的な明証性を補完し合っている。つまり、それは写真の文脈を遡っているようにみえて、直接性・明証性を保障にそれを一挙に越えてしまう。のみならず、そこではその考察自体が属する文脈も隠蔽されてしまう。
 どのような考察であれ、写真について考えることとは、写真をなんらかのかたちで対象化し位置づけることである。だが、対象化された写真がそもそも直接的であり明証的であるとすれば、それはどのようなことだろうか。特定の実体として捉えたうえで写真を語ろうとするかぎり、直接性・明証性は私たちが写真を見出す基底的なレヴェルではなく、写真にそもそも内在するものとみなされるという転倒がおこる。そして、例えば、写真の歴史を振り返るとき奇妙にみえるのは、それがそうした直接性・明証性を軸とした断片、そうした転倒から成り立っていることである。
 だが、そのような転倒を可能にしたものとして写真を考えてみると、そうしたことは思いのほか重要な問題をはらんでいるように思える。諸々の認識論的配置の変容の背景には、媒介的機能を果たす技術の変容がつねにはりついている。そうしたものの一つとして写真を考えてみると、たしかに写真は媒介的でもあるのだが同時に対象的でもある。それは媒介としてはまさしく透明であるのだが、対象としてみるとまったく不透明なのである。写真について考えようとするとき、私たちは思考の対象としての写真をアプリオリに想定しがちである。ところが、じっさいには写真なるものは諸々の社会的・文化的な意味の結び目としてしか捉えることができない。至るところで言われことだが、今日写真を見ない日はないし、私たちは一々それらを見て驚いたりはしない。それは、写真が社会的・文化的な意味の網の目のなかで安定した位置を占めているからである。しかし、それらを写真として捉えようとするやいなや、その意味の結び目の不透明性に困惑せざるをえない。今日むしろ驚くべきなのは、直接的・明証的な写真に内在する何かではなく、事象に内在すると思われた意味を写真が表層的・感覚的レヴェルに連れ出し、厚みのない自明なものとしてもたらしていることである。
 したがって重要なのは、直接的・明証的なもの――例えばアウラ――を質的なものとしてその有無を写真において問うてみたりすることではなく、装置としての写真と媒介的機能を果たす諸々の技術の変容においてまさしく量的なものに変換された表層的・感覚的レヴェルを基底的なレヴェルとして、写真を捉え直してみることのように思える。私たちは今日、何も知らずに一枚の写真を見て何らかの意味を受け取ることができる。その意味では、写真は脱=文脈的であり脱=歴史的なもののようにもみえる。だが逆に言えばそれは、そう思い込むことを可能とする装置として写真があることの証しではないだろうか。一枚の鏡はあらゆるものを映すことができる、そう考えるとき人は、見ている像が自らの視点に決定的に閉ざされていることを忘れがちなように、写真はどのような意味にもとれるという多義性は自明化された視点に裏打ちされたものにすぎないのではないだろうか。断片的にみえる諸々の転倒を、その連続性において見ること、それは、直接的・明証的なものが充足的なものとして写真に表象されているのではなく、写真なるものとして結ばれた意味の裏側に公然と横たわりそれを支えるものとしての直接性・明証性を捉えてみることにほかならないだろう。