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[神話としてのフランク/FILM ROUND GAZETTE 1991年3月号:6]


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 どのような写真にしても、それ自体のみによって意味をもたらすことはない。例えば私たちは、写真はいたるところに溢れており、それ抜きの社会は今や考えることができないと言う一方で、膨大な量の写真を選別し、写真の歴史や同時代の写真を語っている。むろんそれぞれの場合において、写真を捉える視点が異なっているのは当然のことであり、したがってこうしたことは矛盾でも何でもない。だが、注意しなければならないのは、写真が語られるどのような場合においても、そうした写真なるものとは何らかの視点によって導き出されたものであるということである。言い換えれば、写真にまとわりつく様々な意味をカッコに入れ、還元的に写真を捉えようとしても、それが写真なるものを見出だそうとする努力である限り、そこには何らかの視点-意味づけが持ち込まれている。したがって、どのように写真を語ろうとも写真がそこから逃れ出てしまうように感じることと、写真が語ることを超えて在ると考えることとは、区別されなければならない。なぜなら、意味から逃れ出る写真とは、つねに捉えられた写真の意味のあとからくるものなのだから。
 しかし、おうおうにして還元的な操作は、その過程において、あるものの本質を捉える操作と混同されがちである。写真の性質を捉えることとはどのようなことかを検討する視座がそこから取り除かれてしまうなら、そこで見出だされる写真の性質は、ある種の本質へと容易に転化してしまう。還元的な思考は、自明と思われていることへの懐疑に根ざすものだが、そこから取り出される疑いえない思考の条件を、思考を吊り支える実体的な根拠と取り違えるとき、写真を見出し/見出された視点そのものが隠蔽される。
 自明に思われた枠組みが解体することは珍しいことではない。歴史を振りかえれば、世界を分節化する構えが崩れ編み替えられる場面はいたるところに見出だすことができるだろう。むろんそれを考えるのは事後的にしかなしえないし、どのようなものであったのかを考えるのは視点によって異なる。だが、そうしたこともまたあるひとつの思考の枠組みにすぎないことを忘れるならば、変容を契機としてもたらされた視点が自明化され、あたかもその変容そのものが自明のものであったように捉えられてしまう。

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 写真にかかわる者に還元的な思考を強いた時代として、私たちは1950年の後半から1960年代を思い浮かべることができる。すなわち「ファミリー・オヴ・マン」(1955/ニューヨーク近代美術館)と「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」(1966/ジョージ・イーストマン・ハウス)・「ニュー・ドキュメンツ」(1967/ニューヨーク近代美術館)とを隔てて位置する時代である。流布する説によれば、それは、人間中心的で啓蒙的なまなざしによる「ライフ」誌に代表されるような写真の欺瞞が露呈し、それに代って個的なまなざしがリアリティをもっていった時代ということになるだろう。しかしこれをメディア全体を含み込んだ地平で考えてみるとどうだろう。確かに、「ライフ」誌に代表されるようなメッセージの伝達のかたちは有効性を失っていっただろうが、メッセージの伝達そのものがそこで消え去ったわけではない。今日では、メッセージの伝達が異なったかたちで編み替えられているにすぎない。したがって、有効性を失ったのは「ライフ」に掲載されていた写真というより、そうした写真を生み出し、そこから特定の意味を受け取る一定のシステムであり、それを支える社会的・文化的枠組みであるといえよう。人間中心的・啓蒙的といったことは、むしろそうした枠組みにかかるものである。げんに、「ライフ」誌に代表されるような写真と記事の作り方を現在も見かけるが、今日ではそこでの意味を、世界を直接に知ることというより、ある物語として私たちは受け取っている。それは、社会的・文化的枠組みにおけるメッセージの伝達のかたちの変容を示すものにほかならないだろう。こうした観点から考えると、「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」・「ニュー・ドキュメンツ」といった展覧会は、内面を見つめる写真家の登場といったことにとどまらず、解体したメッセージの伝達のかたちを写真のコンテクストにおいて再編する試みとして捉えられるべきであろう。
 こうした意味で、この時代の変容を、世界の直接の再現としての写真の役割が終り、自己を見詰める装置としての写真が隠喩として世界を表象することの始まりとして考えることは、ある程度それを言い当てているがゆえに、「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」・「ニュー・ドキュメンツ」における再編の結果とそこでの写真のコンテクストの位置とメッセージの伝達のかたちを自明の展開として覆い隠してしまうだろう。

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 ロバート・フランクとウィリアム・クラインが浮上してくるのは、まさしくその1950年の後半である。写真のコンテクストからみたとき、クラインの「ニューヨーク」が従来的なメッセージの伝達のかたちにおける写真の記述法の破壊に見えるのに対し、フランクの「アメリカ人」はそれの変形に見える。「ニューヨーク」におけるクラインの手法がその後のアメリカの写真に余り影響を与えなかったのに対し、「アメリカ人」における記述法の影響を多く見出すことができるのは、おそらくこのこと由来する。「アメリカ人」において流れる主題/対象は、アメリカのドキュメント写真、例えばウォーカー・エヴァンスなどから引き継がれるものであり、この意味でその記述法の変形は新たな記述法の形成の契機となりうる(おそらく、その形成を「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」・「ニュー・ドキュメンツ」において見出すことができるだろう)。こうした流れそれ自体を考察するのはここでの課題ではないので、これ以上の言及はさけよう。いずれにせよ重要なのことは、「ニューヨーク」や「アメリカ人」は従来的なメッセージの伝達の解体の体現として見出されるものであり、とりわけ現代写真において「アメリカ人」がつねに立ち返られるテクストとしてあるのは、このような理由によるということである。
 したがって、フランクが現代写真の起源として見出されることそれ自体には何の疑問もない。ただその起源とは、新たなる写真の始まりの無限定な保障としてではなく、写真が機能するのに寄って立つ社会的・文化的基盤を、もはや自明のものとして持つことができない地平から現代写真なるものが始まるという意味においてである。注意しなければならないのは、クラインやフランクその人はその後しばらくして写真の活動を休止してしまっていることだ。例えば、フランクの「アメリカ人」の後の写真集「ラインズ・オヴ・マイ・ハンド」を見れば、それは当然の成り行きであるとも言える。彼にとっての表現とは、そもそも個的で交換不可能な地平にあるものなのだから。むろんこの個的とは、「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」・「ニュー・ドキュメンツ」において見出されるある種の内面性とは異なっている。おそらくそれはフランクにとって、どのようなかたちであれ自らの表現が交換されるやいなや損なわれてしまうものである。その意味で「アメリカ人」の影響の根深さそのものが、結果的に彼を写真から遠ざけた一因であると言えるかもしれない。
 むろん、そうした彼の表現活動は、今日ますますフランクの神話性を深めるものとして機能している。だがここで気をつけるべきことは、そうした神話そのものが写真のコンテクストにおいて見出されているという点である。フランクが神話を生み出そうとしているわけではない、今日の写真が神話としてのフランクを必要としているのだ。写真にかかわる者にとってのフランクは「アメリカ人」を抜きにしては見出されることがありえないにもかかわらず、「アメリカ人」より引き出され交換されるものを否定することによって、フランクは現代写真の神話となる。写真のコンテクストからずれたところで、写真に深い影響を与えた作家の姿は、フランクに限らずつねにある美徳としての写真家のモデルとして捉えられる傾向があるように思える。例えばアジェ、例えばラルティーグ。だが、これは奇妙なことではないだろうか。なぜなら、一方で写真のコンテクストにおいて彼らの写真を見出しているにもかかわらず、他方で彼らへの憧れを演じることでそこでの写真のコンテクストそのものを無化してしまっているのだから。むろんここで隠蔽されるのは、写真のコンテクストの只中で語っている者の立場であり、そうした者がげんに編み上げている写真のコンテクストである(例えば、もしフランクのように表現にかかわろうとするならば、たんにフランクのように生きるほかないにもかかわらず、彼らはけっしてそうしない)。
 今日フランクによる写真を見て、もしそこに格別な語り得ない魅力を感じるとするなら、私たちはまずそこに饒舌に書き込まれた無数の「語り得ないフランクの写真の魅力」という言葉を見出すべきである。