texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[写真の規則15:写真の抽象性について/FILM ROUND GAZETTE 1991年2月号:5]


 写真について考えるとき、どのようなかたちであれ、私たちは何らかの手続きを経て写真なるものを対象化している。では、そうした思考の対象としての写真とはどのようなものなのか。あるいは、そうして思考の対象となりうる写真とはいったいどのようなものなのだろうか。写真を表現の手段的な装置として考えるかぎり、写真は媒介的な装置にすぎず、このような問いはそもそも生じえないであろう。しかし、ひとたび私たちが写真について考えようとするとき、不可避的に出会うのは、あるものを対象化するとともにそれ自体が対象化される写真なるものである。つまりそこにおいて、写真はなにものかを現前させる装置であるとともに、それ自体が現前する装置である。そうした位相において、写真とは何かという問いが呼び起こすのは、二重化された、なにものかを媒介する関係と、それ自身の内に含み込まれた媒介的な関係である。言い換えるなら、写真について考えることとは、そうした二重化された関係の網の目の内に置かれた写真なるものを見出すことであるということである。
 そうして二重化された関係を引き離して写真について考えるならば、私たちはまさに私たちが写真を見出している意味形成の場面を取り逃がさざるをえない。例えばいっけん、なにものかを媒介する関係としての写真に対して、それ自身の内に含み込まれた媒介的な関係を立てることによって、写真の内在的な性質を還元的に考察しうるように見える。だが、なにものかを媒介する関係として写真が見出されているのでなければ、それ自身の内に含み込まれた媒介的な関係はそもそも写真なるものとして与えられることはない。例えば、写真が外在的な文脈に依拠することである意味を固定的に伝えうるとする考えにもとずく一連の努力に対して、写真に内在する見る/読むことの多義性を強調することで写真の潜在的な意味形成の多様性をつうじて、写真の多様性を語ろうとする一連の努力がある。しかし、意味伝達を可能とする文脈を外在的なものとしていったん退けてしまうならば、写真をなんらかのかたちで見出す文脈そのものが失われ、実際に取り出されるのはいわば空洞化した写真なるものである。そうして取り出されるなにものにも囚われることのない写真そのものとしての空洞化した写真は、たしかにいっけん潜在的な意味形成の多様性で満ちているようにみえるが、そこでは意味の関係性が実質的には捨て去られているが故に、そしてじつはその背後ではある一つの意味形成の可能性のみが語られざるものとして特権的に語られるているが故に、ある強制性を備えた言説によって保持されているものにすぎない。なぜなら、ほかならぬ意味の関係性によって与えられている写真を、意味の外に見出そうとするならば、それはただちに意味(言語)を越えた実在、超越的な実体として見出されるほかないのだから。このように考えるならば、そのような言説においての写真が、それを語ることの不可能性においてというより、語ることを退ける力として語られてるのはなんら不思議なことではない。
 しかし、それ自体で多様でありうる写真などありえない。ある写真は、意味形成の多様性を潜在的に含み持つのみである。そしてそれを、それ自体が現前する装置としての写真と直接重ね合わせるならば、写真なるものは超越的な実体として固定されるだろう。そこで欠落しているのは、写真あるいは写真の言説的実践の場面を見ることと語ることが織り成す運動性の内において捉えることである。あるいは、二重化された関係の網の目を、なにものかを媒介する関係と、それ自身の内に含み込まれた媒介的な関係が織り成す運動性として考えることである。そして、そうした運動性において写真を捉えようとするならば、写真はなにものかを現前させる装置であるとともに、それ自体が現前する装置であるという前言は、むしろ次のように言い直されるべきであろう。写真はそれ自体が現前することによって、なにものかを現前させる装置である、と。

 具体的に、ある一枚の写真を思い浮かべてみよう。私たちは、ある縁取られた映像を想起することだろう。この縁取りが、思い浮かべた現実と映像を区別するとりあえずの境界となるに違いない。なぜなら、思い浮かべた写真からこの縁取りを取り払ってしまうなら、それは想起された現実と区別がつかなくなるだろうから。
 眼の前に置かれた一枚の写真をまさに写真として私たちが捉えるのは、それが現実の只中にものとしてあるからであると同時に、それがあるものを忠実に再現=表象しているからである。そこにおけるあるものの時間・空間のずれ、あるいはそのずれによって刻まれた痕跡が写真を写真たらしめていると言ってもよい。この痕跡を、しかし現実と写真の差異だと言ってよいかどうかは疑わしい。なぜなら、この痕跡は時計で計られるような時間・空間のずれによってもたらされたものではなく、まさしく同一的な現実性において刻まれたものだからである。写真それ自体が現前することによって現前させられるなにものかとは、このような事態において刻まれる、それを直接に写真とけっして指し示すことのできないような抽象的な差異性にほかならないだろう。例えば、写真における縁取り、フレームを作り手の意図を伝達する一つの重要な機能として捉えるような考え方がある。なるほど、そうした線状的な伝達の図式にのっとる限り、フレーミングは構図などと同様にそうした機能として見出されるほかないだろう。しかし、あくまでもそうした意図とは、写真を見る/読むことによって事後的に与えられるものである。あるいは、写真を見る/読むという行為が、作り手の意図なるものを生むのだと言ってもよい。この意味で、写真におけるフレームとは作り手の意図と言うよりも、それを可能にするようなある痕跡である。たしかに写真の言説的実践場面においては、この痕跡は具体的な差異へと転化されることによって、実体的なものとして浮上しているようにもみえる。例えば、作品に直接的に言葉を添えるということだけではなく、いわば作品に書き込まれた言語的な位相でのメッセージと、言語ならざる写真なるものの差異として。だが、写真なるものとはそのようにいわば抽出されうるものではなく、むしろ言語的な位相でのメッセージを形成可能にする、抽象的な差異性としての言語ならざるなにものかにほかならないのではないだろうか。ならば、ここではフレームを、そうした運動性を可能にするようなものとして押し広げたうえで、抽象的な差異の只中において考えてみる必要があるだろう。