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[写真の規則14:写真的領域について/FILM ROUND GAZETTE 1991年1月号:5]


 ここに、ある一匹の猫を写した写真があるとしよう。写真に定着された猫、それはまぎれもなく、ある一匹の猫である。むろん私たちは、そこに写っている猫を二次的なものとして、その写真について猫以外の話をめぐらすことはできる。例えば、構図や光、フィルムや印画紙、作り手の意図といったことについて。だが、そうした話は本当に猫を二次的なものとして捉えているのだろうか。むしろそこで二次的なものに転化しているのは、構図や光、フィルムや印画紙、作り手の意図といったことそれ自体なのではないだろうか。なぜなら、写真に定着された猫を見ずに、そうしたことを語りはじめるのは不可能なのだから。
 写真について考える場合、私たちは何らかの形で写真の本質なるものを想定しがちである。それはたいてい、写真的内容を二項に分け、一方を他方より優位に置くことによってなされる。例えば、ある写真を構図によって語るとき、写された物は構図を形作る要素となる。フィルムの粒子や印画紙のマチエールといったことについて語るとき、写された物はその集合物にすぎない。また、ある写真が作り手の意図のあらわれだと考えるとき、その写真は作り手の意図の反映にすぎない。もちろん、こうした優位関係を逆にして考えることも可能である。あるいは、優位性を保持する三項目を立てて、そこに二項を回収することも可能である。しかし、ここで問題なのは、そうした写真的内容の分割の仕方のよしあしを考えることでも、その矛盾を指摘することでもない。重要なのは、そうした二項対立において、一方が優位に置かれることで、写真の本質なるものが暗黙のうちに規定されることである。そして、そうした二項対立において写真なるものを捉えているということそれ自体が、そのとき忘れられているということである。そこでは、写真の本質なるものがあらかじめ在ったかのようにみなされてしまう。だが、そうした分節化がなされなければ、そもそも写真の本質なるものが想定されることはない。
 注意しなければならないのは、私たちはある種の分節化を経てはじめて写真を把握することができるということである。したがって、写真を二項対立によって捉えることそれ自体が問題なのではなく、そうした分節化・対立構造を越えて写真なるものを想定する限りにおいて、二項対立それ自体の形・関係が問われなくなることが問題なのである。どのように言おうとかまわないのだが、例えばある二項対立における分節化は、可視的な見ることと語ることの構造を浮かび上らせる。だが、これを二項対立の内に解消してしまうなら、それは写真に対する二次的な事象と見なされ、その構造は不可視のものにとどまるだろう。しかし、写真なるものを構成するのは、ほかならぬこの見ることと語ることの構造なのではないだろうか。そこでは、写真を捉えるために方法的に言説的位相を設定することが不可避的に必要とされているにもかかわらず、それが覆い隠されてしまう。
 写真それ自体の性質について考えるとき、私たちは、写真によって写真を問うほかない。だがそれを、写真なるものの本質を実体的に見い出だすための努力と捉えてはならない。例えばおうおうにして、写真をめぐる者にとっては、写真にまつわる言説的場は写真に対して外在的なものにみえるし、じっさいそれは外在的である。だが、そうした者にしても、写真にまつわる言説的場を外部に設定していることに変わりはない。そこではそれを自己に内在化することで、写真の外部を問わずに済ますことがなされているにすぎない。しかし、そこには写真を支える本質を超越的な実体性として外在的に保持するか、内在的に保持するかの差しかない。時代の違いによって、あるいは、それぞれが所属する共同性によって、この外在性と内在性は反転を繰り返す。この反転、すなわち本質的なるものとそれに付随するものの二項対立の反転は、むしろレトリカルなものにすぎない。そもそも写真の外部、見ることと語ることの言説的場が機能していなければ、そうした反転はなされえないのだから。写真によって写真を問うことは、いつも超越論的である。だが、それは写真なるものの実体性を保障するものではいささかもない。
 写真に定着された猫、それはまぎれもなくもなく、ある一匹の猫である。と同時に、それはまぎれもなく一枚の写真である。それをどのように語ろうと、私たちは猫について語りつつ写真について語っていることに変わりはない。なぜなら、そこで猫について語っていても、それは写真に定着された猫についてであり、そこで写真について語っていても、猫を見ずに語りはじめることはないのだから。むろん、写真の作り手はある意図を写真に込めることはできるし、写真を見る者は多様な事象を写真から読み出すことができる。だが、それは思うままにではない。写真は現実を切り取り、再現=表象する。その再現=表象は忠実であるがゆえに、意味生成の場面においてはいつも両義的である。現実を切り取るということにおいて写真は意味を限定するようにみえながら、その場面の移動において、写真は意味を充満させる。その外部を設定せずに、誰も意味を決定することはできない。写真はたんなる事物を再現=表象する装置である。だが、それゆえに再現=表象の位相に意味生成の場面を移動させ、再現=表象の質的な変容をもたらさずにはおかないのである。
 写真的なるものの領域を考える場合、重要なのは先に述べたように、レトリカルな反転ではなく、それを可能にするある特有の磁場である。その磁場をつらぬく見ることと語ることの系列とその構造において写真を捉えたときはじめて、外在的とみなされていたことを内在化する装置、内在的とみなされていたことを外在化する装置としての写真、すなわち内部なき外部、外部なき内部としての写真が、抽象的にしてかつ稀薄な運動性の領域として浮かび上がってくるだろう。