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[写真の言説をめぐって:特集=写真をめぐって/映像学:1991年vol.4 no.4]


[1]

 古くから写真を語る際のもっとも主要な前提となってきたのは、写真の機械的な再現能力であると言ってよいだろう。写真論・写真批評の多くは、そこに写真の独自な表現を見出してきた。戦前の代表的な写真論の一つ「写真に帰れ」(『光画』一巻一号)で、伊奈信男はこう言っている。
 写真は機械文明の産物である。それは機械による事物の表現である。「機械」によって、「機械」を通して事物を表現するということは、写真の制作過程に於て最も重要なる、必要欠くべからざるモメントである。「機械」なくして写真は成立し得ない。(此処で「機械」というのは、単にカメラのみ指しているのではない。感光材料を始めとして、あらゆる写真材料をも指している)。即ち、写真の特性はその「機械性」に在る。
 写真の独自性をその機械性において措定しようとするこうした姿勢は、戦後においても写真の言説において幅広く共有されているもののように思える。例えば土門拳の提唱した“リアリズム写真”をめぐる論議においても、アクセントの置き方の違いこそあれ、写真の機械的な再現能力は共通の前提とされている。つまり、そこで争点となっているのはそれをどう捉え、どのように位置づけるかということであり、写真が事物そのものの忠実な再現であるということは共通の前提とされている。長谷川明は“リアリズム論争”についてこう語っている。
 「アサヒカメラ」側の主要論客である浦松佐美太郎は「写真のリアリズムについて」(1952年11月号)の中で、写真は絵と異なりメカニズムが正確な描写を行ってしまう宿命を背負っているため、リアリズムは表現技法ではなく直接思想の問題として関わってくると述べている。この指摘は土門の論旨とも矛盾するとは思えないのだが、土門は「カメラのメカニズムは本来リアリズムであるという俗説ぐらい馬鹿げたものはない」(「カメラ」1953年10月号)と猛反発している。しかし、そのあとで「リアリズムはカメラという名の四角く冷たい機械の中にあるのではなくて、写す人間そのものの世界観と表現方法の中にひそんでいるのである」と同じことを言っているのだからいささか珍妙である。(「「リアリズム」の清算」長谷川明、『写真装置』#1)
 「写真のリアリズムについて」において浦松が語っていることはおおよそ次のようなことだ。〈写真は、人間の眼で見た通りではないが、レンズの見た通りを、正確に写すものである。しかもそれを、ある一瞬に捉える性能を持っている〉、では〈写真や写生がリアリズムなら、レンズを向ければ、それだけでいいはずではないか〉。しかし、歴史においてリアリズムが、アイデアリズムに対立して生まれて来ていることを考えるならば、〈その忠実に写す中にも、理想化や類型化や抽象化が、行われないかどうかを確かめてみる必要があろう〉。それは表現の面においては〈理想化、類型化、抽象化を排除せよということ〉であり、これを積極的に言うならば〈型に捉われずに本質を表現せよということになる〉。つまり、〈ものの本質を表現するには、写真の作家が、まずものの本質を理解しなくてはなるまい〉。
 なるほどこれは長谷川の言うように、“カメラとモチーフの直結”“絶対非演出による絶対スナップ”をスローガンとした土門の“リアリズム写真論”の構えと基本的に変わるところはない。そして重要に思えるのは、こうした写真の捉え方がすでに戦前の伊奈信男によってなされており、この論議もその繰り返しであることだ。  「写真に帰れ」で伊奈は先の引用に続けて、「新しい写真の本質」を「事象性の正確なる把握」「生活の記録、人生の報告」「光による造形」と分類した上で、追随者がこうした表現の表面的模倣を始めていることを指摘し、〈似而非新興写真芸術のインフレーションを歎かずにはいられない〉と述べている。そして、〈カメラの「機械性」は「特殊的・写真的」なるものの「はじめ」である。しかし写真芸術の「はじめ」ではない。写真芸術のアルファは、カメラの背後にある人間である〉、と言う。
 写真の本質が機械的な再現能力において見出されること、しかしそれが類型化した表現となることは退けられなければならないということ、したがって写真表現の本質はカメラにではなく人間にゆだねられていること。機械的な再現能力に写真の独自性を見出すということのみならず、それを起点とするこうした構えにおける円環構造それ自体は、しかし戦前・戦後という時代だけではなく、それからさらに今日にかけても諸々の偏差を含みつつ多くの写真論・写真批評によって変奏され、繰り返されているものではないだろうか。
 写真の本質を、彼らは一様に機械的な再現という、いわば非・人間的な能力において見出す。したがって、それ自体は作者の意図がどうであれ、どのような写真においても見だしうるもののはずである。にもかかわらずことさらに、伊奈信男は“写真に帰れ”と言い、土門拳は“カメラとモチーフの直結”と言う。そこではすでに、例えば浦松が〈結局は作家自身が作品に表現されている〉と言うように、写真は機械的再現ならざるものの表象として価値づけられている。この価値は写真に対して外在的なコードによってもたらされているはずである。しかし、そのコード自体が問題とされることはこのような構えにおいては基本的にありえない。なぜなら、それを検証するときその外在的コードは、機械的な再現という写真の本質にすでに折り込まれているのだから。ゆえに、彼らは類型化・理念化を否定する形でしか写真の本質を語ることはできない。だが、写真の本質・写真の独自性を何らかの形で語っている以上、そのこと自体が根底的理念を作り出していないはずはない。それを端的に言うとするなら、写真の本質は語りえないという認識である。とするなら、土門の“リアリズム運動”がさまざまな批判の対象となり、土門自身も立場を変更していった、結果としては曖昧なものでしかありえなかったことに不思議はない。それはもし運動として持続していようと、社会主義リアリズムというイデオロギーが社会的に問われ失墜したとき、それとともに失墜していたであろうが、そんなことより、そもそも写真の本質を役割として明示的に語り運動として組織する態度自体が、写真の文脈で培われそれを支えてきた写真の本質を問いうる形ではけっして理念化しないという「理念」に反しているのだから。
 ところで、こうした写真の言説の実践的場面を支える、繰り返し立ち返られる地点としての、写真の事物に対しての忠実な再現能力とは、自明のものなのだろうか。言い換えるなら、それは人間の認識に対して外的な規範たりうるものなのだろうか。

[2]

 ロラン・バルトは「写真のメッセージ」のなかで、写真の機械的な再現能力を、文化記号論的立場から分析的に捉えかえしている。
 現実から写真に移るために、この現実をいくつかの単位に切り分け、これらの単位を、読み取らせるべき対象とは実質の異なった記号に構成する必要は全然ない。この対象とそれの映像との間には、中継を、つまり、コードを設ける必要は全然ないのである。確かに映像は現実ではない。しかし、それは、少なくとも、完全なアナロゴン〔類似物〕である。そして、常識のレベルで写真を定義するものは、まさにこの完璧な類似性なのである。こうして、写真による映像の特殊な本質規定が明らかとなる。すなわち、それはコードのないメッセージである。(「写真のメッセージ」、『第三の意味』沢崎浩平訳)
 バルトは進めて、模倣芸術はすべて二つのメッセージ、すなわちアナロゴンそのものである外示されたメッセージと、社会がそれについてどう考えているかを読み取らせる共示されたメッセージからなるが、〈再現のスタイル〉をその内に含んでいない写真は、外示で満たされたコードのないメッセージであり、写真の構造的パラドックスは、共示と外示の共存において、共示された(コード化された)メッセージが、外示されたコードのないメッセージから展開することであると述べる。したがって、〈写真についての記述は文字通り不可能である〉、なぜなら〈記述するということはまさに外示されたメッセージに、中継、すなわち、言語(ラング)というコードから汲み取られた第二のメッセージをつけ加えることだからである〉。
 ここでの課題は、むろんバルトの分析それ自体に深入りすることではない。基本的には「映像の修辞学」などにおいても維持されるバルトの見出す写真の本質が、記号や変換の規則に基づく不連続なメッセージとしての社会的・文化的コードと対立的に、非・人間的、非・文化的な自然的、連続的なメッセージ、つまりコードのないメッセージとして措定されていること、コードのないメッセージとは類似性という概念に基づいて写真が現実を忠実に再現することを示したものであることを確認しておけばさしあたり充分である。
 では、類似性とは写真の本質を規定するのに絶対的なものたりうるのであろうか。
 類似性が写真の本質を規定するのに充分な条件であるかどうかを検討する前に、ここで考えてみたいのは、現実の完全なアナロゴンとして措定される写真の本質が、どのような構えによって支えられてきたかである。なぜなら、はじめにみたように写真の本質を何らかの方向で見出そうとする姿勢は、例えばバルトのように文化記号論的立場から写真を考察しようとする者に限らず、写真表現にかかわる者が不可避的に抱えもつものであり、実践的場面における言説の布置を形成する一連の構えを秩序づけるものと考えられるからである。
 像の潜在的意味作用の可能性の限界を設定するのは類似性であるという主張の、最も集約されたかたちを、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における「写像説」にみた犬伏雅一は、それをこう要約している。
 ウィトゲンシュタインの『論考』の議論に従うと、像自体のもつ内的関係の内にある諸構成要素の構造関係と、この像から論理的射影が及びうる対象自体の内的関係に於ける構造が同一の仕方で成立しているとき、可能性としての像形式が現実になり、両者が一致するものとして、像は対象の真なる像になるとされた。(「写真映像の本質」、『映像学』 vol.3 no.1)
 『論考』のこのような論述において、端的に承認すべき前提とされているのは、言語と世界が同型対応をなすということである。ウィトゲンシュタインが言語を像的見方から考察していたこと、そして映像/写真は(音声)言語に負けず劣らず「自然的」(バルト)なものであることと、ここでの関心を重ね合わせ、例えばウィトゲンシュタインが〈およそ映像が被写体の映像となりうるには、映像と被写体のうちに或る同一のものが存在しなければならない〉(『論考』二・一六一)と言うときに保持している前提を、写真と世界が同型対応をなすことと読みかえておこう。
 これは、どのような構図によって導かれる前提であろうか。写真と世界が同型対応をなすという前提からは、写真の再現能力は現実を写しだすものであり、その一切は現実としての世界にその根拠を持つということが引き出される。なぜなら、〈映像は実在のひな型である〉(『論考』二・一二)から、映像/写真のもつ形式はみな世界の形式の写像ということになるから。すると、写真はここでは、それ自身が秩序をもつことはない、いわば透明な媒体でなければならないことになる。こうした前提が暗黙に要請しているのは、この幾何学的な射影を成立させるための無限遠点のようなありえぬ一点である。これを主体と呼びかえてもよいが、それは世界に内属する主体ではなく、超越的主体、唯一絶対的単純者とでも言うべき世界とともにあってその全てを一挙に把握する仮構の主体である。
 こうした観点から、写真の本質を規定するものとしての類似性を捉え直してみると、バルトの言う写真の「非・文化性」「自然的」、あるいは伊奈信男の言う写真の「機械性」といった超越性は、まさにこうした仮構の主体と類比的に位置づけられることで、その本質たりうるものであることがわかる。
 では、類似性とは写真の本質を規定する揺らぎなき唯一絶対的な一点でありうるのだろうか。「アナロジーの彼岸」という講演で、クリスチャン・メッツは初期の自身の立場を批判しつつ、〈類似性はコードの対立物であるどころか、〈類似性はコードの対立物であるどころか、コード化された現象なのです〉と述べている。
 類似性は、少なくとも二つのレベルでコード化された現象です。第一の水準は、図像的アナロジーがコードを移転する上で強力な手段となるということです。すなわち、表象されたもとの事物のなかで機能していたコードが、類似性の力によって、写真なりデッサンなりの映像のなかに移し換えられる。(中略)写真が現実に似ているから、写真を見る人はそこに現実を支配するコードを識別できるのです。
 図像性とコードの類縁関係の二つ目は、第一のものより深い水準に位置します。それは、類似性そのものがコード化されているという水準です。忘れてはならないのは、類似性の現象は、唯一、類似性の判断にもとづいているのであって、それ以外どこにも類似性の根拠はないことです。写真が現実の事物に似ているのは、人々が似ていると判断し似ていると言うからであって、それ以外ではなのです。(「アナロジーの彼岸」三浦信孝訳、『現代思想』1981年8月号)
 今日では、写真の類似性の絶対性、コードのないメッセージとしての写真の本質は、メッツに限らず様々な論者によって否定されている。こうした観点からすると、事物の機械的な再現としての写真、アナロゴンとしての写真は、写真の本質を規定する人間文化の外的な規範たりえない。それが基準として機能しうるのは、写真が社会的・文化的制度に組み入れられ、人々によって承認されている場合に限られよう。とすると、写真のそうした本質とは、けっして社会的・文化的制度の外にあるものではなく、そうした制度の一部として機能していることになる。
 ロラン・バルトは、〈共示された(あるいは、コードに組まれた)メッセージが、コードのないメッセージから展開する〉という写真の構造的パラドクスについてこう言っている。
 この構造的パラドクスは倫理的パラドクスと一致する。すなわち、《中立的、客観的》であろうとする時、人は綿密に現実を模写しようとする。あたかも類似的であることが価値の充当に抵抗する要因であるかのようだ(少なくとも、これが美学的《レアリスム》の定義だ)。では、どうして写真は《客観的》であると同時に《充当》され、自然的であると同時に文化的であることができるのか。(「写真のメッセージ」、同前)
 このパラドクスは写真の言説におけるパラドクスとも一致する。なぜ写真の言説は、客観的な機械性という基準を指標としながら、価値を充当しうるのか。しかし、ここまで考察してきたことを踏まえて考えるならば、それはなんらパラドクスではない。その透明な客観性それ自体が価値体系を吊り支えているのだから。しかも、そこでの価値体系は不可視的である。なぜなら、「自然的」「機械性」という写真の本質が仮構の主体と類比的な関係において見出される「主体」であるなら、その「主体」は射影幾何学における無限遠点のような一点を巡っており、人間の視点から見ればその都度姿を変えていくものであるのだから。こうした二重化された主体において、その超越性は実体をあらわにすることなく写真の言説を秩序づける。例外的にそれがあらわになるのは、そのような「主体」が運動をやめ固定化され、しかもそれが社会的イデオロギーに支えられているときに限られる。例えば、土門の“リアリズム写真”のように、写真を価値づける外在的なコードが社会的イデオロギーと相補的に固定化されるときである。しかし、こうしたイデオロギーを二重の主体の運動性によって弾き出すものこそ、特定の誰かによって築かれることなく、ただ端的に承認されてきた写真のリアリズムのイデオロギーと言うべきものである。

[3]

 現在では、写真の本質が機械性やアナロゴンとしての写真において見出されることが実定的に語られることは、かつてより少なくなったようにみえる。だが、だからといって、写真の言説を形成するこうした構え自体が変容したと言えるだろうか。
 ロラン・バルトの『明るい部屋』は〈「自伝」と「虚構」と「写真論」が分かちがたく混じり合う微妙な地点で成り立っている〉(花輪光)、写真の本質を解明しようとするバルトその人の探求の物語ではあるが、むろんそこでも写真の本質(ノエマ)が語られている。「写真のメッセージ」から『明るい部屋』に至るまでのバルトの映像論/写真論を、その連続性から読むこともむろん可能であるが、ここでの関心から、写真の本質の見出され方がどのように変化したのかをみてみよう。
 バルトは、アナロゴンとしての写真もまたコード化された産物であるという論者達の批判を踏まえて、こう言う。
 今日、「写真」について論ずる人々(社会学者や記号学者)のあいだでは、「写真」の意味論的相対性を指摘するのが流行である。《現実のもの》は存在せず、ただ人為的なものがあるにすぎない(写真はつねにコード化されている、ということを理解しない《現実主義者(レアリスト)》は、大いに軽蔑される)。それは「慣習」(Thesis)であって、「自然」(Physis)ではないのだ。「写真」は世界のアナロゴン(類同物)ではない、と彼らは言う。(中略)しかしながら、こうした議論は無益である。「写真」が類同的(アナロジック)であることは、いっこうに差支えないが、しかし同時に、「写真」のノエマは、いささかもその類同性(アナロジー)のうちにあるわけではない(類同性は、「写真」が他のあらゆる種類の表象と共有する特徴にすぎない)。(『明るい部屋』みすず書房)
 かつての見解への批判に当たる意味論的相対性における議論を「無益」なものと否定しつつ、同時に、かつての自身の見解をも退けているようにみえるこの箇所において、ではバルトは写真の本質をどこにおいて見出そうとしているのだろうか。
 「写真」とはコードのない映像である――たとえコードが読み取りの方向を変えるようなことがあっても、明らかにそうである――とかつて主張したとき、私はすでに現実主義者(レアリスト)の一人であったし、またいまもそうであるが、現実主義者(レアリスト)は決して写真を現実の《コピー》と見なしているわけではない――過去の現実から発出したものと見なしているのだ。「写真」は一つの魔術であって、技術(芸術)ではない。写真が類同的(アナロジック)であるかコード化されているかを問うことは、分析の正しい道ではない。重要なのは、写真がある事実確認能力をもっているということであり、「写真」の事実確認性は対象そのものにかかわるのではなく、時間にかかわるということである。現象学的観点から見れば、「写真」においては、確実性を証明する能力が、表象=再現の能力を上まわっているのである。(同前)
 このような構えにおいて、バルトが〈鷹揚な現象学〉をもって企てる〈写真の存在論(オントロジー)〉における写真のノエマとは何か。『明るい部屋』においてバルトが用いる「ストゥディウム/プンクトゥム」という二項による分析装置は、記号論的見地から見ればかつての「コードのあるメッセージ/コードのないメッセージ」や「自明の意味/鈍い意味」にほぼ見合うものである。しかし、バルトは二項対立的分析における前半部分を〈前言取り消し〉し、〈自分自身のなかにさらに深く降りて〉いき、写真の明証性を救出しようとする。そこでは写真の本質が、〈それは=かつて=あった〉として、表象=再現・類似性にかえて実在性・過去性において見出される。バルトがそこで見出す〈唯一の明証〉とは、母の〈あの「温室の写真」〉において、〈これだ!〉と出会う〈《似ていること》とは無関係なとつぜんの目覚め、言葉を欠いた悟り〉における〈私的〉なものである。前半では〈細部〉において形式的に見出されていたプンクトゥムが、後半ではむしろ意識にかかわる〈強度〉において再度見出されていく。
 ところで、こうした明証性がその直接性において見出されることそれ自体が、意味の体系に再度位置づけられるとすれば、やはりそれは前期ウィトゲンシュタインにおける〈映像が表わすところのもの、それは映像の意味である〉〈名辞は対象を指示する。対象は名辞の意義である〉(『論考』二・二二一、三・二〇三)といった、言語/写真などの媒体の透明性という前提においてにほかならないだろう。犬伏雅一は先の引用に続けてこう言っている。
 しかしながら所謂後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論によれば、像そのものの並びに対象の独立的並びにメタ的確定は、両方が言語ゲームに帰属してのみその存在を主張しうる、即ち、当該言語ゲームの内で相対的ではあるが恣意的ではない構造確定が可能となるのであり、絶対的な仕方で構造を確定することはできない。『論考』に於いても像の形式、つまりは写像の可能性はメタ化し得ないとされていたが、言語ゲーム論でも当然このメタ化の否定を継承するとともに、射影としての像の一致のゲームは、像の言語ゲームの内に包摂されて明示的規則を樹立しえないとされる。(同前)
 この「意味の対象説」から「意味の使用説」と呼ばれる転換は端的に言うなら、言語の意味とは、対象との対応関係においてではなく、その用法によってもたらされるという意味論、言語論的転回である。「意味の使用説」、言語ゲーム論に沿って考えるなら、バルトの私的経験――〈それは=かつて=あった〉、〈これだ!〉――は、それを語ることによってその経験を他者に報告しうるわけではない。私的経験の身振りから、言語ゲームにその経験を表象しうるのみである。言語ゲームに属する限りにおいて、私的経験はもたらされる。なぜなら、それを伝えるという実行以外に、それが言語ゲームに属する根拠を求めることはできないのだから。したがって、バルト自身がいかに内面にその根拠を求める身振りにおいて語ろうと、その根拠は実行、身振りにおいてほかない。
 さて、ここで私たちは『明るい部屋』での探求方法について、いまいちど考えてみる必要があるように思われる。先に見たように、バルトは類似性を写真の本質として捉えてきたことを否定し、実在性・過去性といった領域から私的な身振りによってそれを見出そうとする。バルトが好んで用いる二項対立的な構図「コードのあるメッセージ/コードのないメッセージ」から、「ストゥディウム/プンクトゥム」といった構図への変容は、たしかに類似性から実在性・過去性へと対応してはいる。しかし、それが二項対立的であることに変わりがない以上、「コードのないメッセージ」にせよ「プンクトゥム」にせよ、写真の本質を透明性・超越性において導き出していることに変わりはない。『明るい部屋』は、そこからさらに〈私的〉な身振りのなかに写真を閉じ込めることで、「プンクトゥム」というタームを作り変えながら、写真は常に直接には語りえぬ領域に属するものと位置づける。バルトは言う、〈もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは=かつて=あった》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である〉、と。そのことによって、『明るい部屋』は形式(二項対立的構図)が内容を裏切り、バルト自身の物語〈ロマネスク〉(花輪光)という構造を浮き彫りにするテクストとして成立することになる。テクストとしてのこうした構造は、逆説的に、写真をより語りえないものとして位置づける強力な写真の言説を作りあげるものになってはいないだろうか。
 写真についてのテクストではないと言われながら、『明るい部屋』は常に写真の言説にまとわりつき、変奏され繰り返し語られている。それが常に物語へ、内面へと折り込まれる以上、そこでは、かつての“リアリズム論”のように写真につきまとうイデオロギーがあらわになることはない。だが、それゆえに『明るい部屋』は、写真のイデオロギーを目に見える形で問うことを無効にし、それをもっとも問いえない地点で不可視のものとして写真の言説に埋め込む作用をしているように思えるのだが。