texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[写真の物語:柳沢信『写真』/deja-vu 910410 No4:?]


 約二十年間の写真から編まれたという柳沢信の写真集は、たんに『写真』と題されている。収められた百点近くの写真もまた、頁を繰るにしたがって積極的に読むべき物語を語りはじめるという訳ではない。じっさい風土の景観に詳しくなければ、それが「北の方からゆっくりと南下する流れ」で編まれていることにすら気づかないだろう。では私たちはこれを、対象のありのままを写すという写真の物語や、柳沢信の旅の物語として読むべきだろうか。編者の柳本尚規も引いている文章で、柳沢氏は自作「二つの町の対話」(1966)に触れて次のように語っている。

「さてあの頃は、私は可能なかぎり言葉の世界から遠ざかった所で写真を成立する事が出来るならばと思って写真を撮っていた様だ。それはなぜかと想い出して見ると、あの当時のシリアス風に写真と取りくんでいた多くの写真家の作品(コマーシャルの分野は別として)が、右の眼でファインダーを覗きながら左の眼で文字の世界の住人たちにウインクを送っている様にしか、私には見えなかったからである。それらの一見映像第一主義的な画像スタイルと、作品に添えられた意味ありげないくばくかの文字やタイトル。それ等の作品の受け手である文字の世界の住人達が行った、写真の意味の深読みごっこ。『いいかげんでやめてくれ』と言いたかったのが私の当時の気持ちであったようだ」。

 ここで語られていることはいっけん、言葉に写真が回収されることへの嫌悪にみえるし、じっさいそうであろう。だが、注意しなければならないのは、映像をあたかも自立したモノのように考える「映像第一主義的な」作品が、まさに言葉との調和的な秩序を織り成し、制度的なディスクールを形成していくことをも、同時に彼は嫌悪していることである。ここにあるのは、写真は言葉で語り得ないものだという前提のもとに写真の独自性を措定する姿勢ではなく、「言葉の世界」「文字の世界」といったある種の文学性に回収されるような意味を自ら進んで提供している写真作品への不信である。そうした柳沢氏の考えは、例えば作品タイトルになによりもよくあらわれているように思える。年譜を見ると、「あのタイトルや産業都市VS地方都市と言う対比のシカケは私のまじめなジョークであった様だ」という「二つの町の対話」以降、作品のタイトルは地名や季節によって付けられるか、「海辺の光景」「市場の光景」「雪国」といった撮影された場所を端的にタイトルとしているものがほとんどである。こうしたタイトルですら柳沢氏自身が付けたものであるかどうか知る由もないが、写真からメタフォリカルにイメージを喚起するようなタイトルをまったく受け付けなかったことは事実であろう。
 むろん、コマーシャルをやめたあとのこうした柳沢氏の姿勢を、この時代の写真状況と切り離して考えることはできないだろう。編者の柳本氏は次のように言っている。「その行方はさておき、コンテンポラリー・フォトグラフィーは、『表現』と『使命』の幻影に縛られ続けてきた写真を解放し、裸婦とコカコーラに象徴される戦後の日本の写真美学にようやく縁を切る流れの役割を果たしたのである。柳沢信の写真は、そうした流れの源の一つであった。少なくとも周辺は、柳沢の写真をそう位置づけることになったのである。そういうことになってからの柳沢の写真は、かつてより一層、自分が特定されることを避けるように、作品のトーンも撮影地同様振幅が激しくなったようだ」。
 おそらく日本における「コンポラ」とは、社会的にも写真家自身の意識においても、雑誌メディアにおける社会の反映としての写真の伝達の機能が解体しはじめたことの実感においてあったはずである。早くからそうした実感をもっていた柳沢氏が、そうした運動性を形作った一人として位置づけられたことには何の不思議もない。だが、一方で写真の制度的なディスクールが告発されながら、他方で写真を基軸とした言葉との調和的な秩序がやすやすと新たに別の形で織り成なされていったのは、何よりもそうした解体を内的に抱え持ち、いわばそれを体現した彼にとって、苦々しいことであったに違いない。「コンポラ」をモードとしてと言うより、その運動性を体現した彼にとって、それは「解放」ではいささかもなく、そうした解体作業すらも解体されるべきものであるほかなかっただろう。
 この『写真』と題された写真集も、そうしたことの例外ではないだろう。げんに柳沢氏は、この写真集を第三者に預け、自身は一片の文章もそこに寄せていない。『写真』という題名は、写真への想い、写真へのこだわりといったことを示すものではいささかもないだろう。冬に撮ったからたんに「冬」と題され、津軽を撮ったからたんに「津軽」と題されたように、二十年間の写真が編まれたからそれはたんに『写真』と題されるほかないようなものであるに違いない(このタイトルですら柳沢氏自身が付けたものであるかどうか知る由もないが……)。そこで私たちが出会うのは、ある物語、ある主題によって調和的に融合される写真家と写真の軌跡ではなく、実定的に写真を捉えることを拒絶することを体現し続けた断片としての写真である。あるいは、そうした断片としての写真のエクリチュールが稀薄に語りはじめる物語、写真の物語である。