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[展覧会が提出する問い:「東京―都市の視線」展・「東京~TOKYO」展/deja-vu 910110 No3:135-136]


 ここ数年で、写真においても規模の大きな企画展が数多く開かれるようになってきている。しかし、そうした企画展に対して交わされる言説においては、作品についての個別的な問題や個々の作家の取り扱い方のみが問題化されることが多く、そうした企画展が個展とは違った位相で写真についての何について語らせようとしており、また、語っているのかといったことが問われることは意外に少ないようにみえる。だが、そうした展覧会において重要なこととは、それがどのようなコンテクストを参照し、そこでどのようなテクストが編まれているのかということにほかならないのではないだろうか。
 例えば、ここで東京/都市をめぐる二つの企画展『東京――都市の視線』『東京~TOKYO展』を思い起こしてみよう。この二つの展覧会に共通しているのは、作品をとおして東京という都市のテクストを読みとり、同時に、作品をとおして東京という都市を新たなテクストとして編み変える試みであるということだろう。とするなら、これらの企画展において問題とされていることとは、作品から東京という都市の何を見出しえて、それがどのように構成されうるのかということであろう。
 『東京――都市の視線』は「生と時代」「記号とシンボル」「関係と構造」というキーワードから構成されていた。これらのキーワードは、戦後から今日までに撮られた写真を時代的に対応させるものであると同時に、それぞれの写真から特定の意味をみちびきだす働きをし、写真と東京という都市の現実における変貌との連鎖を試みる関数であると考えることができるだろう。したがって、選ばれた写真がこうした場に並べられたとき生じるのは、東京という都市についてのディスクールであり、問題とされるべきはそこでのテクストが東京という都市をどのように分節化し構成しているかということにほかならない。ここで重要なことは、三つのキーワードが作家-作品という関係において生じていたであろう意味をキーワードにそった意味へと置き換えていくものである以上、こうした企画においては展覧会そのものが織り成すテクストによって「作家性」は不可避的に侵害され、展覧会が「東京と写真家の間にかわされた、都市の視線というべき交感の軌跡を位置づける」場には、そもそもなりようがないということであろう。
 『東京~TOKYO展』は、写真家だけではなく美術家や建築家も含めたコラボレーションによって構成されていた。この展覧会を組み立てている「見えない境界」「記憶のトポロジー」「身体の夢と澱」「廃園と楽園」といったキーワードは、個々の作品の意味をそうしたメタファーへと圧縮し、さらに「TOKYO」というメタファーへと圧縮する働きをしていると考えることができるだろう。つまりここでは、個々の作品は相互に交感可能な要素として、メタファーとしての「未知の虚像未来都市『TOKYO』」にいわば投げ込まれるものである。したがって、メタファーとしての「TOKYO」は、ここで展開されるテクストと都市や作品にまつわる従来のコンテクストとがずれればずれるほど、饒舌に語られることになるだろう。しかし、こうした類いのメタファーは、いかに都市の機能を多義的に語りえたとしても、また、いかにそれぞれの作品のコンテクストをずらしえたとしても、それがシンボリックな記号としての「TOKYO」と裏表の関係にあるテクストを織り成すものである以上、ここでは展示そのものが安定した関係、言い換えるなら、ある静的な秩序へと結果として集約してしまうことは避けられないように思える。
 コンテクストを意識的に設定することで都市のテクストを編み上げようとする『東京――都市の視線』、そして具体的なコンテクストを設定することを意識的に回避することでメタファーとしての都市をテクストとして編み上げようとする『東京~TOKYO展』といういっけんすると対照的に見える二つの企画展は、このように考えてみると、思いのほか今日の写真表現についての根底的な問題を共通に照らしだしているように思える。それは端的に言うならば、こうした展覧会が提出する問いとは、たんに作品と個人のかかわりについてのものにとどまらず、むしろそれ以上に、表現を不可避的に支配しているディスクールについてのものであり、したがって、今日では写真表現においてもそうしたディスク-ルの作用やコンテクストの対立的な関係について無自覚ではありえないということであろう。これらの企画が、作品の意味がテクストを構成するのではなく、いわばテクストが作品の意味を規定するということにおいて、意識的なアプローチを試みていることは充分に注目されるべきことのように思える。そして私たちがそこから課題として引き受けなければならないのは、そうしたディスクールを写真の外部として具体的に思考する手掛かりとして、こうした展覧会のテクストを読むことを試みることにほかならないのではないだろうか。