texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[漆川浩司写真展『拡散された都市』/deja-vu 911010 No6:?]


 俯瞰と言うよりも、ビルの数階・十数階程の曖昧な高さに据えられた撮影の位置、特定の建造物、特定の形が対象として選ばれるのではなく、街を形作る雑多な要素がちりばめられることによって形成される画面、そしてこうして無名性を帯びた視点をさらに際立たせるかのように平坦な色調・コントラストに仕上げられた印画。漆川浩司の写真展『拡散された都市』に提示されていた写真を記述してみるならば、およそこのようなものになるだろう。透明化・無名化された視点によって導かれた、この匿名化された都市の写真には、おそらく都市について/写真について語りはじめる、無数の契機が潜んでいるように思える。
 だがここでまず考えてみなければならないのは、匿名性・無名性に貫かれながらも私たちを語ることへと導き、『拡散された都市』をテクストたらしめている、漆川の写真における只一つ明白な点、都市を写した写真/写真に写された都市ということについてであろう。
 様々な表現ジャンルにおいてもそうだが、こと写真の言説において都市というタームは、ひときわ重要なものとして扱われてきていると言ってよいだろう。このことは、スティーグリッツやアジェといった歴史的な写真家達が、都市を対象とし主題とした作品を数多く残してきたということと同時に、例えばアジェの写真についてのベンヤミンの考察が、いかに様々な文脈で引かれてきたかを思い起こせば容易にわかるように、そうした都市を対象とした写真についての言説が、一種の特権的な扱いを受けてきたことを意味するものにほかなるまい。
 では、写真の言説において都市とは、どのようなものとして扱われてきたのだろうか。近代から都市は、社会・文化などのあらゆる面に渡って多様な機能を集積している〈場所〉として、私たちの前にその姿をあらわしてきた。端的に言うならば、写真の言説における都市もまた、近代という時代の枠組みと裏表になったそうした〈場所〉として写真のなかに見出されてきたと言ってよいだろう。
 しかし当然のことながら、こうして〈場所〉として捉えられた都市は、写真の物理的機能の範疇に収まりきるものではない。そして、写真の言説において常に、写真に写された都市が、隠喩としての都市/隠喩としての写真が交錯する地点にテクストとして見出されてきた理由もここにある。だが、こと今日においては、写真に写された都市を見る/見ないにかかわらず、私たちが個々の内にすでに都市のイメージを作り上げていることは明白であろう。つまり、今日、都市を写した写真を見るということは、私たちが個々に作り上げた都市のイメージの錯綜体にいま一度出会うことであり、また、もはや自明化されてしまった写真の言説における都市を再確認することにすぎないのではないだろうか。
 漆川の写真もまた、こうしたことの例外たりえているわけではないだろう。私たちは、例えば大型カメラによる緻密な画面、その細部といったことに誘われて都市をそこに発見しているわけではなく、あらかじめ主題化された隠喩としての都市に支えられた写真の内に、都市を写真化する過程を改めて見出だし、そこに隠喩としての写真を重ね合わせているのである。もちろんこのこと自体は、今日、都市を対象とした写真作品が不可避的に抱え持たざるをえない条件とでも言うべきことであり、漆川の写真にのみ帰せられるべきことではない。そして、にもかかわらず、以上のようなことが漆川の匿名的・無名的な都市の写真によって顕在化されており、重要な今日的問題として浮かび上がっていることこそが、『拡散された都市』において最も積極的に評価されるべき点であるように思われる。
 すなわち、『拡散された都市』は、隠喩としての都市/隠喩としての写真が交錯する地点に見出されるテクストであると同時に、写真の言説における都市論的文脈の今日的在りようを照らし出すテクストとして存在している。
 こうしたことから、『拡散された都市』が課題として浮かび上がらせるのは、写真という、今日においてはきわめてその機能が限定されざるをえないメディアによる都市に対するアプローチを、いかに表現論的地平において有効に活かすことができるのかということの再検討、そして、すでに自明化され凡庸化されてその有効性を失ってしまったように見える写真の言説における都市論的文脈を、写真表現においていかに再組織化しうるのかといった問いであろう。そしてこのことはむろん、漆川の今後の作業においてだけではなく、写真に関わる者が等しく直面せざるをえない問題にほかなるまい。