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[現実との距離を見る:倉田精二『80's Family―Street Photo Random Japan』/deja-vu ? No?:144]


 1991年に出版された『80's FAMILY』、そしてその傍らに1980年に出版された『FLASH UP』を置いてみる。改めてここで言うまでもなく、共通するのは倉田精二の現場主義、そして現場を徹底して表面として捉える視点である。では、その差異とはなんだろうか。『FLASH UP』が70年代を体現しているのに対し、『80's FAMILY』は80年代を映しだしていることである。
 現場主義、と言ったが、もしそれを同じ呼び名で呼ばれるような写真史上の写真家と比することで捉えようとするならば、私たちは倉田が70年代に獲得した地平をただちに見失ってしまうだろう。なぜなら、いかに彼の写真からそうした写真家達との類似点が見出せようと、倉田精二の現場主義とは、写真史的な自然な連続性の上にあるものではなく、彼自身が70年代という時代の中でいわば“発見"した技法であり、現実を表面として捉える方法だからである。つまりそれは、写真本来の力と呼ばれるべきものでも、写真の本質的な衝撃と呼ばれるべきものでもなく、なによりもまず表面化する技法であり、表層化する方法である。
 『FLASH UP』が70年代を体現していると言えるのは、端的に言えば、70年代を内面化しているからにほかならない。そして、70年代を内面化することで獲得された方法が、現実を表面へと反転し写真を表層化することである。そしてこのこと自体は、70年代には何ら珍しいことではなかったはずである。当時の出版物に当ってみれば、写真を表面化する装置として捉らえ、さらに写真を表層以外の何ものでもないイメージとして捉えることで、写真の可能性を見出していこうとする諸々の実践を見つけることはさほど難しいことではないだろう。それは、70年代の同時代の写真家達に幅広く共有されていた道筋であった。
 80年代の写真表現における大きな変容は、それとは逆に、70年代の表層化する方法それ自体が内面化されていったことである。70年代に表層にあった諸々の現実は、それとともに内面へと溶解し、物語として語られるようになった。写真は、表層以外の何ものでもないイメージとして捉えられるのではなく、写真は表層以外の何ものでもないイメージだということすらも物語として語られるようになったのである。これは、むろん70年代の写真家と80年代の写真家の差異ではない。そうではなく、70年代の作家と呼ばれる写真家自身の多くが、そのような変容すらも体現することでもたらされたのが写真の80年代なのだ。これもまた同様に、幾つかの出版物を当ってみれば、時代の中で獲得された方法を、例えば〈私〉のものとして内面化していく実践の過程を見つけるのは難しくはないはずである。
 ところが、倉田精二は80年代に入っても70年代に獲得した表層化する方法を手放すことがなかった。これは、自身の方法を貫く意思のようにみえて、それとは微妙に異なっている。というのも、おうおうにして人は、自身を内省的に捉えようとするまさにそのときに、時代そのものをも内面化しがちなものだから。おそらく、倉田が手放さなかったものとは、表層化する方法であると同時に、70年代の内面、すなわち表層化する方法を組み上げる、現実を相対化し表面へと反転する距離であると言ってよい。そして、『80's FAMILY』と今日の私たちを隔てるのは、まさしくこの距離である。ここには、内面化されなかった80年代が映しだされている。
 たしかに、『FLASH UP』と『80's FAMILY』とを見比べてみると、『FLASH UP』を強く印象づけていた暴力的な光景が、『80's FAMILY』ではさりげない光景へと変化しているようにも見える。しかし、それを倉田自身の方法の変容と捉えるべきではない。それは、70年代に表層にあったものが80年代には掻き消されていったという現実に見合った変化にすぎない。そして、この変化が『80's FAMILY』で可視的なものとなっているのは、倉田の方法が時代に見合った変化を遂げなかったがゆえのことである。
 したがって、ここで、いっけんさりげない光景に見えるが実は――、と80年代の流儀で『80's FAMILY』を読むことだけは避けられなければならないだろう。『80's FAMILY』がその厚みのない表面によって語っていることは、80年代の内面を過ごした者の根底的な無自覚、つまり“実は"の裏側には実は何もなかったものではないかということ、80年代に可能性として語られた物語そのものが表面にすぎず、読まれるべきはその表面を実定的に満たす物語ではないかということにほかなるまい。