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[ストレート写真という〈虚構〉:〈示すこと〉と〈語ること〉の配置をめぐって/BT・美術手帖1991年12月号:151-156]


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 それをどのように意識するかは別として、今日の写真表現がひとつの重要な変容に直面していることは間違いなさそうだ。ある者はそれを、現実を忠実に写しだす客観的媒体としての写真と、現実そのものの優位を複製性において覆い尽くしてしまう写真のメディア的特性との対比において捉えようとし、またある者は、写真表現の特殊化・自立の問題と、制御を越えた写真イメージの増殖の蓄積の問題との対比において見出そうとする。変容のある部分を確実に言い当ててはいるだろうこうした問題機制は、80年を前後して言われ始めたテイク(撮る)写真からメイク(作る)写真、あるいはストレート写真からコンストラクティッド/ステージド/ファブリケーティッド写真といった対立的な構図に対応すると同時に、高度情報社会や大量消費社会といった今日的現実を含み込んだものであると見做して、おおむね外れてはいないだろう。
 だが、そうした構図を前提とした問題機制によって、写真表現の表層的変化を各々の目的論的配置に応じて手際よく分節することが、その背後で根底的な認識論的転換をも呼び寄せていることに気づくとき、私たちは対立的構図に応じた別種の写真があるわけではなく、そもそも両義的な価値としてそれらを写真が内在させているのではないかという素朴な疑問に出会うことになる。そうした両義性を内包しているからこそ、私たちは同じ写真を前にして、ある時は格別の考えや反省を加えることなしに率直にその映像を享受し、またある時はそこに〈愛〉や〈死〉や〈記憶〉といった深遠さを含んだタームを重ね、そして高度情報社会や大量消費社会の象徴としてそれを語りうるのではなかろうか。
 今日の写真表現を表層的変化においてだけではなく、その認識論的転換において考えてみるためにまずなされなければならないのは、様々な写真を捉える構図やその言説が前提としてきた、写真の機能を捉える概念それ自身のありかを問い返してみることであろう。

2

 芸術定義の問題に結びつき、また、創造の原理とされるもののひとつに、自然模倣=芸術という構図に典型化される芸術観に基づいたミメーシス(模倣)という概念がある。例えば、文学における写実や描写といった方法は、このミメーシスという概念から派生していると考えられるだろう。しかし、現実と言語による表象の間には埋め難い溝があるために、ありのままを言語によって描写すること、つまり〈語ること〉の対極にある〈示すこと〉――言語のミメーシス性を規範とすることは、それ自身が語られたものである以上、常に言語との倒錯的な関係における矛盾のうえに展開されざるを得ない。ジェラール・ジュネットは、それを端的にこう指摘している。
 実際、演劇的再現とは異なり、どんな物語言説であろうと自己の語る物語内容を、「示すこと」や「模倣すること」はできない。口頭によるものであれ書かれたものであれ、物語るという行為が言語的事象であり、また言語は意味作用をおこなうのであって模倣するわけではないという唯一にして充分な理由のために、物語言説に可能なことと言えばそれは、詳しく・正確に・「生き生きと」物語内容を語ること、そしてそれゆえに、ミメーシスの錯覚――これこそが物語の唯一のミメーシスにほかならない――をさまざまな度合で与えることに限られるのである。(『物語のディスクール』花輪光+和泉凉一訳・書肆風の薔薇)
 では、物語ることにおいて、示すこととはどのようなものであるのだろうか。「テクスト的なミメーシスの諸要因」を「物語情報の量(より展開された、あるいはより詳述された物語言説)、および、情報提供者つまり語り手の不在(もしくは最小限の存在)」に見出すジュネットは、そこから示すことの互いに連関し合った二つの原理、「情景(詳述された物語言説)が優位を保つこと」・「語り手が(疑似的な)透明性を維持すること」を導き出す。
 このような言語(文学)の語ることの機能の一面を踏まえつつ、映像(視覚的再現)について考えてみるならば、その最も基本的な特徴は投影の法則に従いながら、現実を「自然」に示すことにあると言えよう。言語が語る(叙述する)ことの機能の上に成り立っているとすれば、映像はこの示すことの機能の上に成り立っていると考えられる。むろん、映像における示すことは、言語における「ミメーシスの錯覚」としての示すこととは位相を異にしている。映像における示すことは、その機械的な再現能力と結びつけられ、多くの論者によって類似性の概念のもとに語られてきた。
 現実から写真に移るために、この現実をいくつかの単位に切り分け、これらの単位を、読み取らせるべき対象とは実質の異なった記号に構成する必要は全然ない。この対象とそれの映像との間には、中継を、つまり、コードを設ける必要は全然ないのである。確かに映像は現実ではない。しかし、それは、少なくとも、完全なアナロゴン〔類似物〕である。そして、常識のレベルで写真を定義するものは、まさにこの完璧な類似性なのである。(「写真のメッセージ」、『第三の意味』ロラン・バルト、沢崎浩平訳・みすず書房)
 ここからバルトは、同時に、他の絵画や映画や演劇など他のすべての模倣芸術・再現芸術と写真との差異を、共示された(コード化された)メッセージが、外示された「コードのないメッセージ」から展開するパラドクスに見出す。そしてこの観点から、写真の示すことの機能における語ること(記述すること)の位置を、「類似性の充実感が非常に強烈なので、写真についての記述は文字通り不可能である」・「記述するとは、単に不正確、あるいは、不完全であるだけでなく、構造を変えることであり、示されたもの以外のものを意味することなのである」というふうに、逆説的に導き出している。
 むろん、こうした分析的過程それ自体を掘り下げることが、ここでの課題ではない。おおむねこのように捉えることができるであろう、言語における語ることの機能とそこでの示すことの位置、写真における示すことの機能とそこでの語ることの位置を確認しておけばさしあたり充分である。
 ところで、すでに多くの場面で指摘されているように、肯定=断言的な性質を持つ視覚的再現(写真)における示すことと、差異の体系である言語における語ることは、けっして混合することや一挙に与えられることはない。その両者はけっして等質化することなく、諸々の言説空間で出会い、交錯し、特有の序列や位階関係の配置を形作る。もちろん、かつてからこれまでの写真表現にしても、その例外ではなかったはずである。いかにこれまでの表現において、写真の現実の忠実な再現能力や機械的複製性が独自性として強調されていようとも、それらはむろん即自的に与えられたものではなく、諸々の言説的実践のなかでまさしく示されそして語られたものであった。このことを踏まえたとき浮かび上がってくるのは、そもそも写真の近代性の萌芽とは、今日その批判的対比の構図から想像されるような、単純なものであったのであろうかという問いであろう。

3

 その語感から様々な了承がなされてはいるだろうが、「ストレート写真」というタームは、写真史的に明確にその起源をたどりうる言葉である。それはアルフレッド・スティーグリッツによって提唱された、それまでの写真を絵画的に使用することに芸術的価値を置くピクトリアリズムを否定し、カメラの機能を生かしその再現性・記録性を重視した表現であるとされている。スティーグリッツはこの提唱を、「絵画的写真の型にはまった伝統的写真概念への異議申し立て」をおこなう写真集団フォト・セセッションの結成や、雑誌『カメラ・ワーク』の創刊、そして写真だけではなくヨーロッパの美術の動向なども紹介するギャラリー『291』の開設など、様々な組織化された実践をとおして展開した。ここにおける伝統的価値観への拒絶、そして写真の独自性の主張という相補的な構図から、写真における近代性の成立をみることは、誰にも異論のないことであろう。だが、いっけん素朴にもみえるこうした展開は、どのような写真の言説空間の誕生を意味しているのだろうか。
 ストレート写真の提唱を近代写真の成立として捉えたうえで、それ以前の言説空間を考えてみるならば、ピクトリアリズムとは前近代的芸術観によって支えられた形式としての絵画芸術の範疇に収まるものであり、写真の機能から引き出されていた様々な有用性、例えば肖像写真・資料写真といったカテゴリーは、けっしてピクトリアリズムと対立しあうものではなく、それぞれが独立した機能として併存していたと考えられる。スティーグリッツはここに、ストレート写真というタームによって新たな領域を成立させることで、ピクトリアリズムを近代写真の言説空間から弾き出すとともに、その過程自体を前近代的芸術観の乗り越えとして写真の近代的価値を組織し、さらに、肖像写真・資料写真といった従来的な写真の社会的機能の一部分をも近代写真の価値(「写真のための写真」)として含み込みながら写真の近代性のありかの明証性を構築する。こうしてスティーグリッツによって戦略的に形作られたストレート写真の言説空間とは、写真の機能の様々な有用性をピクトリアリズムと対置することで、そこから近代写真のありかを引き出し編み上げられたものであるとともに、一方で「芸術のための芸術」という近代的芸術観に合致しそれに支えられたものでもあるだろう。
 ここで重要なことは、歴史的背景としての近代写真の成立ではなく、そこにおける戦略が、ストレート写真を示すということだけではなく、同時にそれと不可分である言説の実践が絡み合うことではじめてなされえたことである。そしてこのことを考えるとき、私たちは、ストレート写真という領域にそのはじめから潜んでいた、ある意味での矛盾に立ち会うことになる。それは、ストレート写真が、写真家の創造的自己意識という近代的自我の確立によって支持されると同時に、カメラの機能を生かしその再現性・記録性を重視する(神秘性や抽象性を排除する)という写真に対する直接性によって支えられていることの矛盾である。つまり、ストレート写真とはけっして手放しなイメージ(写真映像)の直接性を基底としているわけではなく、そのはじめからイメージの直接性と写真家の作家性との矛盾、言い換えるなら、示すことと語ることの両者が相互に干渉し交錯しうる言説空間を基底として、表現の実践的場面を形成してきたと言えるのではないだろうか。
 そしてさらに重要に思えることは、ある意味での矛盾を基底とするこのようなストレート写真の言説空間の形成が、近代美術において音声・文字言語と視覚的(ノン・ヴァーバル)なものが互いに矛盾しながらも交錯し、またその矛盾自体を動力としながら、より曖昧で複雑な表現の抽象化がなされてきたことに類比的であるようにみえてならないことである。

4

 言語(文学)が、語ることの対極にある視覚的特徴を持つ示すことを倒錯的に孕みながら、諸々の価値や様式を生産する空間として機能してきたように、写真もまたそれ自身のありかを見出そうとしたときから、まさにそれ自体を語ることの内に示し、示すことに語ることを交錯させながら位階関係の配置を形作ってきた。写真それ自体を、いかに直接的・明証的な映像であり肯定=断言的な性質を持つものと捉えようと、そうした認識や規範そのものが表現の言説空間で形作られたものである以上、それらはけっして社会的・文化的な制度における認識や規範の外にあるものではない。むしろその内で、ある種の写真の機能を自明かつ「自然」なものに見せるものこそ、写真によってもたらされた示すことと語ることの位階関係の配置における遠近法的倒錯であると言うべきである。例えば、映像を言語と対立的に捉える際、類似性が特権化されることを批判するクリスチャン・メッツは、類似性が対象の持つコードを転移する手段であること、さらに類似性そのものがそもそも似ているという判断に基づくコード化された現象であること指摘し、「映像を多くの異なった言説的事実の中に戻すこと」を強調しつつ、こう言っている。
 あるメッセージが視覚的だからといって、そのコードが視覚的であることにはならない。あるコードが視覚的メッセージの中に現われるからといって、それが他のところに現われないということはない。そのうえ、あるコードは(視覚的なものですら)決して可視的ではない。何故ならコードは論理的な関係の網目から成り立っているからだ。視覚的な「言語活動」は、他の言語活動と多様かつ複雑な体系的結びつきを保っており、「言語的(ヴェルバル)なもの」と「視覚的なもの」とを、その一つ一つは等質な、塊のような、他との接点を欠いた、二つの大きなブロックのように対置させても、何の役にも立たない。(「類同性(アナロジー)の彼方に、映像を」、『映画記号学の諸問題』浅沼圭司訳・書肆風の薔薇)
 もちろんこうした問題は、今日ではこれと同じかたちで露出しているわけではない。なぜなら、言語的なものと視覚的なものの融合をむしろ活かすところで写真表現が展開しているのが今日的状況であり、その背後には、写真が自己との関係においてある以上に、それ自身が自律的な差異化の機能を担っていることが明らかになったという社会的変容が存在するからである。しかしその変容を、従来的な写真表現の認識論的な構図に、写真の複製性やシュミラクルなイメージの増殖を対置することで捉えようとするような問題機制の内には、写真の直接性・明証性に対するナイーヴな把握が未だに潜んでいるようにみえないだろうか。言い換えれば、今日の社会において、写真が変形と転移をいわば自律的に繰り返し差異化しているのはもはや誰の目にも明らなことであり、そのことを一義的に指摘することが批判的有効性を持っているとは必ずしも限らないのである。
 今日の写真表現における認識論的転換の一面は、そうした変容において写真表現それ自身が担う機能や意味をも含めて捉えることが不可避的に要請されていることにあるが、むろんその把握は、写真の近代性のありかをも含めたところでの、今日的視点による示すことと語ることの位階関係の配置、つまり言説空間としての写真の洗い直しを除いては根底的たりえないように思える。