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[写真の共同性について/PHYLO PHOTOGRAPHS ANNUAL 1990 1990年9月刊:5]


 表現行為が、個的な契機と過程の産物として捉えられることは珍しいことではない。ことに、写真においては、さまざまな媒体との交通を失っていった一方で、オリジナルとしての印画が注目されることにより、そうした捉え方が何の疑いもなく受け入れられているようでもある(例えば、「撮影行為から一枚の写真ができあがるまでの過程において、すべての選択が一個人によってなしうる写真表現は、他の映像メディアと比べてきわめて個的な作業だ」といった類いの考え方を耳にすることは、少なくない)。だがそのような捉え方は、個人と写真機・発表形態などとの結び付きと、表現のプロセスとを直に重ね合せ、制作過程と表現過程とを直接的に擦り換えることによって、実質的なプロセスにおけるさまざまな関係性を無視している考え方であるばかりでなく、それによって暗黙のうちに、自らを写真の共同体と対置するものとして措定していくような考え方である。対共同体としての表現者、それは、共同体から己を解放することによって表現が活性化されていくという、近代的な表現の在り方の図式に収まっていく、共同体への異化作用(表現の枠組みの差異化)としての表現者である。しかし、ここで忘れてはならないのは、自立した個人が表現を組み替え、表現の枠組みが展開していくというこの図式において、その活力そのものは、つねに共同体自体に担われているということであろう。
 したがって、いかに、写真表現がその制作過程から個的なものに見えようとも、それが写真表現とのかかわりにおいて把握されるやいなや、それは写真の共同体との関係において捉えられているのであり、また、表現のプロセスは不可避的にその関係性の内で思考される宿命をもっている。ある表現はある者の関心をひき、ある表現はある者の関心をひかないのは、それがたんに違った表現の「傾向」としてあるからではなく、ひとくちに写真と呼んでいる表現の場にも、さまざまなかたちの共同体が分布しているからである(ある表現の共同性それ自体を非難するとき、人は自らが何らかの共同体に属していることを忘れがちである)。
 写真表現にかかわる一人一人は、ただ一個人としてあるのでもなく、たんに写真の行為者の集団の一員としてあるのでもない。重要なことは、写真表現にかかわる者は、つねに関係の網としての共同体の内にあるのであり、その一人一人のすべての態度が、いわば、一つの行為として共同体に作用し、何らかの意味をおびざるをえないということを理解しておくことであろう。そのことを忘れるとき、私たちは、あたかも共同体から独立した「自由な」表現の場所がどこかにあるかのように思い込み、制度としての共同体への問いかけを欠き、それを結果的に不可視のものとし補強するというわなに、ふたたび陥いるにちがいない。
 写真展や、こうした写真集も、それを考慮するならば、意図するか否かにかかわらず不可避的に、また意味の場として在るはずである。とすれば、そうした意味の場そのものを、作り、また、その内で表現することの“意味”を根底から問い直してみることが重要なことに思われる。

 この写真集においていくつかの、個人の、そしてコラボレーションによる作業が提示されている。いっけんオリジナルに見えていた作業も、こうして一つの場に置かれてみると、総体としてはじつに平坦なものに見えてくることに気づく。だがそれを、たんなる撮影対象の類似、あるいは手法の類似としてのみ考えてしまってよいものだろうか。大切なのは、個々の作業がこうした場において併置されることによって、それが、対共同体としてのオリジナルな作業としてではなく、少なからず共同体の関係の網からその動機を受けとり制作されているだろうことを、見い出し、またそうした観点からその共同体のかたちの在りようを考えてみるということではないだろうか。また、そうしたことを考えてみる契機として、この写真集におけるコラボレーションによる作業を捉えてみることができるだろう。そこにおいては、スタッフワークのエレメントを個々に応じた役割に当てはめていく、あるいは、コラボレーション自体を一つの新たなオリジナルな制作の在り方として設定していくといった、従来の共同制作の把握とはちがった位相から、表現の共同性が問われ試みられていることを見い出しうるであろうから。
 くりかえしになるが、この写真集自体がさまざまな作業を含みながらも、じつに平坦なものとして見えるだろうということは、表現の共同性をはからずも結果的にあらわしているとは言えないだろうか。とするならば、そうした意味の場をふたたび検討してみることが重要に思われる。すなわち、ここにおいての、見えるものにおいての差異の平坦な在りよう、そしてとりわけ、平坦な場における差異の在りようが、いまいちど表現の共同性という観点から、その差異と重なり(同一性)において思考されてみる必要があると思えるのだが。