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[キーワード'90〜写真を読むために11:複製/日本カメラ1990年11月号:140-141]


 写真表現について考える場合、それが複製技術による表現であることをぬきにして考えることはできないだろう。しかしこのことは、今日の写真表現の場が複製技術による表現の場として機能していることを必ずしも直接意味するものではない。後に述べるように、むしろ複製という概念から遠ざかろうとすることによって、かろうじてその自足的な場を形作っているのが写真表現の場の現状であろう。ではなぜ、そのような状況がもたらされているのだろうか。ここでは、複製技術による表現としての写真にいまいちど焦点を当てることによって、現在の写真表現が不可避的に直面せざるをえない問題について考えてみたい。
 古典的芸術においての作品とは、視線のたっしえないところに秘める聖性を表象するものであり、それ自体において価値付けられているものであった。それは、作品が世界を透明に表象し、世界吊り支えるすぐれた象徴として機能していたということを意味する。しかし、おそらく19世紀においてすでに、世界を秩序付けていたそうした象徴機能による安定した認識論的場はくずれはじめ、いわば記号化され・断片化された世界が意味の網の目としての世界像を織り成しはじめる(9月号『写真と美術』参照)。そうした、徴機能が解体されはじめ、価値が相対化されてくる地平に登場するが複製技術である。複製技術とは文字どおりにうけとるならば、「ほんもの」に対しての「にせもの」、オリジナルに対してのコピーを生み出すものである。そして、ここでの両者の隔たりはいっけんすると絶対的なものであり、「ほんもの」は唯一性に裏付けられた価値をそなえ、複製はその二次的なものにすぎないようにみえる。しかし、複製技術の登場によって唯一のオリジナルと無数のコピーがもたらされたことが可能にしたこととは、そのような「ほんもの」に対しての「にせもの」といった対立的構造において、たんに「ほんもの」のみに唯一絶対的な価値をあたえるということなのではなく、そうした二項対立それ自体の相対的な差異によって、「ほんもの」を中心に編まれる価値体系を作り出すことであったと言うことができるだろう。こうした事態を、複製技術が象徴機能の解体を促したこととも、あるいは認識論的位相での象徴機能の解体が機械的技術の登場を促したこととも考えることができるだろうが、その相関関係を追うこと自体はここでの課題ではない。重要なのは、ここにおいては、オリジナルとコピーの関係はその相対的差異によって規定されるものであり、作品がオリジナルとしてそれ自体において価値をそなえるのではなく、価値体系における相互の差異がオリジナル(あるいはコピー)としての作品を生み出すということである。
 したがって、今日、なんらかの作品がオリジナルと呼ばれるにしても、それはコピーと対立的関係であることに保障された相対的な差異による分節化の産物にすぎず、そこでのオリジナルとしての価値は、それ自体に潜在的にコピーとの価値の審級を含みこむことによって形作られていると考えるべきであろう。このことは、今日ではコンテクストの編まれ方によって、容易にオリジナルとコピーの関係が反転することをみても明らかだろう。そうした制度的中心としてのオリジナルは、むろん古典的芸術においての作品のようにそれ自体に価値をそなえたものではなく、なしくずし的に価値の反転を繰り返しながらも、常に制度的な自律的価値を編み変え更新するものとしてのみある。しかし、そうした価値の反転がオリジナルとコピーの対立的構造を相対的に薄めていくものかというと、そうではない。そこでは逆説的にも、オリジナルを中心とした価値体系がさらに相対化されることで、受け手に従属していると思われる例えば感覚的なレベルなどをも分節化し、そうした細分化によって、価値の審級があらゆるレベルに配置されるがゆえに、よりそれが強固なものとして機能するのである(細分化し多様化しているようにみえる表現において、私たちがしばしば一元化された価値につきあたるのは、こうした理由によると考えられる)。これを表現の個別的な場にあてはめるなら、表現に関わる一人一人がいかに自らの作品に固定的な価値を置こうとしようとも、その運動性が引き起こす価値体系の変容によって、そうした営みそれ自体が否定されざるをえず、かつそのときに出会うものは、自らの場の内に強固に配置された価値の審級であるという事態だと考えることができるだろう。このようなことを踏まえたとき、現在の写真表現の場においての大きな疑問となるのは、そのような相対的な差異による価値の審級から織り成されるコンテクストを、なぜことさら写真の自足的な場として機能させることにのみ重要性を置くのだろうかということである。むしろ、はじまりからそれ自体が複製であった写真表現においての課題となるのは、複製技術の登場に体現されるような価値が生じる場が不可逆的に変容した位相を、表現の問題の積極的契機として受け止め、その可能性において写真表現の自律的な場を見い出すことを試みることではないだろうか。
 1936年に書かれた『複製技術時代の芸術』におけるヴァルター・ベンヤミンの予想と違えて、なしくずし的ではあるが(むしろ、なしくずし的であるがゆえに)作品の《アウラ》−《礼拝的価値》はいまだに存在しているし、また、それがすぐれて制度的な問題である以上、今後も消滅することはないだろう。《アウラ》は所有不可能な聖性から切り離された変わりに、細分化され所有可能なものとなり、あらゆるレベルに配置されるからである。だが、具体的な展望への記述のうちに両義性をはらんだ彼のテクストを、今日的な写真の可能性において読むとするなら、私たちが見据えるべきは、例えば次のような一節における問題が今日ではどのように機能しているかということにほかならないのではないだろうか。《一般的にいいあらわせば、複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである。複製技術は、これまでの一回かぎりの作品のかわりに、同一の作品を大量に出現させるし、こうしてつくられた複製品をそれぞれ特殊な状況のもとにある受け手のほうに近づけることによって、一種のアクチュアリティを生みだしている》−−つまり、ここで言われるような《アクチュアリティ》が生じる場としての複製についての考察こそが必要となってくるのではないだろうか。というのも、ここでの《アクチュアリティ》とは、芸術に関わる特権的な者たちの一義的な意図によって受け手に伝達されるという類いのものではけっしてなく、受け手が置かれる状況によってそのつど生成するものであり、その生成の場としての《特殊な状況》においての複製の機能を考えることは、複製技術による表現においての付随的なことがらにとどまらないばかりか、むしろそこにこそ根源的な問題が潜んでいると考えられるからである。それを例えばここで、〈変形〉と〈移動〉の問題として捉えてみることができるだろう。
 ふだん私たちは、写真作品のリアリティ(あるいは《アクチュアリティ》)をどのような場から受けとっているのだろうか。率直にふりかえってみるならば、それは例えば写真集やカタログであったり、雑誌に掲載された作品であったり、あるいは紹介文に添えられたほんの一枚の写真であったりするように思える。だとすると、「オリジナル・プリント」を見るために展覧会へ行くといった行為は、写真作品を見ることの根源的な営みなのではなく、むしろそうしたリアリティを確認するための営みの一部にすぎないと考えることができるだろう。そうであるならば、例えば「オリジナル・プリント」独自のリアリティといったものは、「オリジナル・プリント」そのものにそなわった絶対的な魅力というよりも、見る者が相対的な差異によって見い出す価値の一つの在りようとして捉えるべきであろう。すなわち、オリジナルとして措定されるプリントですら、その価値が生じる場面とは、〈変形〉と〈移動〉の一つのあらわれにおいてであると言えよう。ならば、複製という概念からはじめて生じるこの〈変形〉と〈移動〉という複製技術の機能を、写真表現の内的な自律性として考えることはできないだろうか。それ自体が複製である写真において、〈変形〉とは「ほんもの」に対して加えられる二次的な操作ではなく、個別的な場面においてのあらわれそれ自体である。そして〈変形〉はむろん写真作品の展覧会などの場への移し変え、作品の写真集・カタログなどの印刷物への転移、さらには印刷物を受け手が見る場の多様な在りようなど、さまざまなレベルでの〈移動〉と不可分の関係にあることは言うまでもない。もちろん〈変形〉と〈移動〉を具体的な場面において数え上げてみても、それは相対的な差異による価値の審級に回収される営みにしかならないだろう。ここで重要なことは、〈変形〉と〈移動〉が織り成す価値の網の目においてこそ、私たちは常に作品の意味を受けとっているということである。つまり〈変形〉と〈移動〉とは、事後的に把握される具体化された固定的な一つ一つの形であるだけではなく、作品を見ることの経験的な反復においてそのつどあらわれる差異の運動性を可能にする意味生成の場を形作るものにほかならない。
 このように考えるならば、ことごとく反転されなければならないのは、〈変形〉と〈移動〉の一つの結果にのみ事後的に固定的な価値を見い出したり、あるいは、制度的な価値体系においての二元論的対立構造にしたがって領域を設定することで、そこからのみ写真表現のコンテクストを捉えようとするような思考の方法それ自体であろう。なぜなら、そのような類いの思考は、無数の潜在的なコピーを始源とする複製技術としての写真においては、そもそもありえるはずのない架空のオリジナルを中心として成立している体系である以上、写真表現においての現実的な意味生成の場を例外なく取り逃がすであろうから。そして、現在もっとも必要とされ、またじつは私たちが日常的に直面しているのは、作品を見ることのディスクールについての問い、すなわち複製においての〈変形〉と〈移動〉が、どのようなレベル/どのようなコンテクストにおいて織り成されているのかという表現の内的な機能についての問いであり、また、このことを抜きにして今日の写真の問題を捉えることはできないように思われる。むろん、ここでの見ることとは、作品に対置されるたんなる良き鑑賞者において措定されることではなく、作品を経験的な反復において見い出し、差異の運動性に思考の場を置く実践的な営みである。そしてこうした位相での問いは、個別的な場をオリジナルと見なすことがもはや意味を持たない地平において写真の機能を引き出し、相対的な差異による価値体系が無効となるような表現の場へと写真を導き出すこと、さらに写真がそうした位相での表現として機能することの展望へとつながりうるはずである。私たちは、オリジナルを中心に編まれる価値の審級の自律性にかえて、〈変形〉と〈移動〉の体系としての自律性を組織しなければならない。