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[キーワード'90〜写真を読むために10:美術館/日本カメラ1990年10月号:148-149]


 日本でも、写真作品を美術館という場所で見ることは、特別な経験ではなくなってきている。また、そうした経験はこれから増えることすらあれ、減ることはないだろう。このことを考えるとき、重要なことは、写真が美術館という場所に入っていくという具体的な出来事にのみとらわれるのではなく、そうした出来事によって写真表現の場を形成する文化的・社会的な価値関係の網の目が、どのように変容しているのかを見すえようとすることであろう。
 美術館での展覧会を見るというありふれた経験を思いかえしてみよう。美術館の展覧会は基本的に、収集された作品や貸与された作品で構成されている。そして、そこにはかならず、企画者によるある種の選択がはたらいている。つまり、美術館の展覧会で見る作品とは、美術館(企画者)による美術の分節化をくぐったものである。よって、美術館という空間で作品を見ることとは、そうした美術の分節化(価値関係の網の目)を背景に作品を見ることにほかならないだろう。むろんこのことは、ギャラリーで個展を見ているときには、そうした分節化を背景に作品を見ているのではなく、作品それ自体に向き合うことが可能であったということを意味しない。なぜなら、前にも述べたように、表現の場にかかわる以上、どのような作品にも表現の過程とその過程を形成する文脈がいわば書き込まれており、作品を作ることとそれを読むことは二重化されているからである(『批評』8月号)。だが、美術館の展覧会において異なっていることとは、そうして個々の表現の場において編まれていたであろう価値関係の網の目における差異と同一性が、いちど均質化され、さらに相対化されるという傾向をもつことであろう。例えば、反芸術を標榜する作品でさえそこでは均質化され、その否定性すら相対化されざるをえないように。美術館について考えることとは、じつは今日においてのそうした美術の制度性について考えることと同義であるように思える。
 このことを踏まえるならば、考えるべきことは、写真表現にかかわる一人一人が、今日では例外なく美術館という場所に象徴されるそうした位相での制度性に絡めとられており、誰一人としてそこから逃れることなどできないということであろう。
 ここ十数年ほどのあいだに、写真においては、実物(オリジナル)と複製(印刷物)の差異は、決定的かつ自明のもののように考えられるようになってきている。しかし、そのような制度性において、そのことはそれ自体がすでに制度的事実であって、それぞれの写真の本来あるべきはずであった固有のトポス−実物(オリジナル)を見い出しえたことを何ら意味するものではないだろう。むしろ、すべてが均質化・相対化された地平においてそうした差異が見い出されたことを考えるならば、それは、今日ではもはや本来の在り方における写真作品などはどこにもありはしないことを、逆説的に示しているように思われる。また同じように、ギャラリーでの個展と美術館での企画展を対比することで、その差異がもともと絶対的なものであるように見ることも(例えば、個展では作り手の意思が十全に保障されるというふうに)、制度的事実を追認するにすぎないだろう。というのも、個展にしても、そうした制度的枠組みにおいて作り/見ることに変わりはない以上、そこでなされる価値付けも相対化されたうえでのものにすぎないからである。とするなら、美術館における展覧会にかんしては、そうした差異の均質化・相対化をこそ、その特質として捉えかえしてみることが重要なのではないだろうか。美術館の展覧会においては、作品それ自体に変更がなされることはなくとも、じっさいには展示される空間・配列の仕方によってその作品が置かれる条件はそのつど変更される。それは、そこにおいて作品の価値関係の変容が不可避的に生じているということにほかならない。ならば、ここで問われなければならないのは、企画者の分節化による作業がいかになされ、それがどのようなディスクールを形成していくものであるかということをおいて、ほかにないのではないだろうか。
 今日、写真を専門的にあつかういくつかの美術館の登場によって、美術館という場所をめぐる論議が写真にかかわる人々のあいだで生じている。例えば、美術館による括りは個別の写真表現にあったはずの文脈を無化するものではないかとか、あるいは美術館の企画者は個別の写真表現の現場を見ることなく企画を立てているのではないか、といったふうに。しかし、急速に美術館という制度によって写真が領域的に統一されていくという制度化にいっけん対立的であるようにみえるそこでの論議は、以上のことを考えるならば、つねにその認識論的な場が相対化した上で成立しているものにすぎないもののように思える。つまりそうした批判は、美術館における制度性を美術館という場所において具体的に対象化しようとするあまり、本来的とされる写真的コンテクストを自らがもういっぽうで想定してしまっているものなのではないだろうか。しかし、美術館に象徴されるような位相での制度性それ自体が、そうした認識論的な場の相対化によって価値の網の目としての制度を形作っていることを考えるならば、そうした批判は何ら有効ではないだろう。のみならず、そうした批判は、けっきょくは美術館における統一的なディスクールと対をなすような、制度的ディスクールに収まっていくものであるにちがいない。というのも、美術館によってなされる価値の編み変えにおける統一的なディスクールと、そのこと自体に対立しようとするディスクールは、写真的コンテクストの内からうつしだされた芸術としてのテクストを、ふたたび写真的領域と統一しようとする二つの制度的身振りにすぎないと考えられるからである。
 私たちは今日、写真と絵画が並んで展示されようと、ダゲレオタイプとコンテンポラリーの写真作品とが併置されようと、そのこと自体に何ら驚きを感じることはない。そしてそこで私たちが見るものは、作品の固有のトポスであるはずはなく、価値の網の目のなかでの作品である。逆に言えばそれは、そうして均質化・相対化されたところでの価値の網の目を前提とすることをぬきにしては、私たちが作品から何かを見い出すこともありえないということである。このことは、今日では私たちが例外なく美術館に象徴されるような位相での制度的空間に属していることを意味している。とするなら、現在もっとも重要なことは、美術館それ自体を対象として批判をさしむけることではなく、そこで行われている行為がそのようなディスクールを形成していくのかを見すえていくことであろう。それは具体的には、言葉のレベルにおいてどのような文化的・社会的な価値関係の網の目がそこで生じているのかを検証していくことにほかならない。領域的な統一を批判するとするなら、そうした位相での批判作業でなければ、何の有効性ももつことはないのではないだろうか。
 脱領域的な作品・批評といったものは、領域に対しての実体として在るわけではない。それは、領域的な統一に対して差異を差異たらしめようとするディスクールの試みの運動性においてのみ見い出だされるものである。いま、写真表現にかかわる者一人一人が直面せざるをえないのは、そうしたメタレベルでの問題であり、そこでの作品/批評の機能こそが問われているように思えてならない。だとすれば、私たちは領域化されないような架空の自由な表現の場を夢見るべきではない。求められているのは、むしろそうした領域的な統一を表現の場の内側から突き崩すような試みにほかならない。そしてそれは、各々がどれだけ明確な、写真を作り/読む視点を創出できるかにかかっているように思われる。