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[キーワード'90〜写真を読むために8:批評/日本カメラ1990年8月号:136-137]


 古典的な芸術観が実体物を前提にした(例えば、再現=表象によって支えられた)透明なものであったのに対し、近代以降では、芸術それ自体が目的となることによって、芸術はそれ自体の相互の差異においてその内に成立根拠を求めざるをえないきわめて不透明な関係に置かれ、その差異の在りようを把握し、また措定する批評が重要性を担いはじめるということは、この連載ですでに述べた(『モード』4月号)。むろん、これをたんに批評が作品に対して優位に立ったことと受けとめてはならないだろう。批評と作品の分離とその優位性の措定というより、それは、批評そのものが「近代的芸術」という物語を導き入れたことであり、不透明な関係の内で、作品の位置が批評に織り込まれ、また批評の位置が作品に織り込まれることによって、批評と作品の関係が不可逆的な変容を遂げたことに他ならない(近代以降では、作品もまた批評である等と言われるのはそのためである)。批評にとってその変容とは、批評が作品に対し透明な関係を保ち客観的/主観的に作品を記述することにより、作品そのものを言葉で言い当てうるような明確な位置を失うことである。そしてそれは、作品について語る言葉が同時に批評自身にも不可避的に言及されるということに他ならない。つまり、作品を語ることとそれを語る自己への問いとを明確に分離することが不可能となり、作品の批評の内におのずと自己批評を抱えもつのが近代以降の批評であると言ってもよいだろう。むろん、今日の写真批評にしてもその例外ではないはずである。
 写真を見るということ、それは言い換えれば、写真を見るという現象の個々人にとってのあらわれである。写真を見て(あるいは写真を想像して)何かを感じることとは、個々人においてたちあらわれる現象であり、それ以上でも以下でもない。ところが、その現象について何かを語るとき、それは必ず言葉によってなされる。言葉とは、同一性をひきだし、かつ同一性を分節することによって織り成される恣意的な規則であり、また同時に、その規則によって同一性と同一性の分節の仕方を措定する差異の体系である。それに対して、現象とは、ある特定の時と場所で起こる一回性の出来事である。よって、写真を見て何かを語ることとは、それ自体では何の関連も相互にもたないさまざまな現象を、言葉という恣意的な差異の体系によって関連づけ言い当てようとする営みであると言えよう。あるいは、それを意図するか否かにかかわらず結果的に、変なる現象から不変なる何かを引き出す営みであると言ってもよい。しかし、むろん、現象が言葉によって関連づけられることで現象と言葉がいかに近づいて見えようと、見るという現象とその現象を語ることとが一致することはありえない。いかに見ることの内に語ることが成立しているように見えようと、あるいは語ることの内に見ることが成立しているように見えようと、見ることと語ることの間には絶対的な隔りが潜んでいるのである。
 見ることと語ることの間の隔りは、しかし、近代以降の作品と批評との関係を考えるならば、明確に把握することはじっさいには不可能である。写真を作ることがつねに写真と言葉によって織り成された意味作用の場でなされる以上、写真がそれ自体他のものと何の関係も持もたずに独立したものとして提示されることはありえず、したがって、何らかのかたちで提示される写真には、写真を作るまでのあらゆる過程とその過程が形成する文脈がいわば書き込まれている。そして、その過程と過程が形成する文脈とはたんに作り手という個人に所属するものではなく、それを読み語る言葉によってもまた規定されているものである。つまり、写真を語ることは作ることと読むことにおいて二重化され、写真が見られるものであり言葉がそれを記述するという透明な関係は、そこにおいて消滅しているのである。
 見ることと語ることが不透明な関係に置かれながらも、なおかつそれが「写真」という一つの体系を織り成しているのは、じつはそこに写真と言葉が相互に干渉することが可能な場が形作られているからである。そして写真と言葉のそうした関係の場がいわば自律的なものとして機能しているのが、近代以降の「写真」という枠組み、言い換えれば「写真」という制度に他ならないだろう。むろん、「芸術」の根拠がそれ自体の相互の差異において成立しているように、「写真」の根拠もそれ自体の相互の差異において形作られている以上、その自律性とはあくまでも疑自律的なものにすぎない。だが、その疑自律性が「写真」という制度の自己言及によって支えられるとき、それは枠組みを差異化によって細分化しつつ純粋化し、疑自律性の根拠の絶対化を不可避的に生み出す。その理由の一つには、記述すること(語ること)の内に、暗黙の内に帰納主義的考察が生じるということがあるだろう。現象を記述する言葉の積み重ねによって共通の出来事を見い出すことにより、普遍的な法則(根拠)を導き出してしまうことがそれである。帰納主義的考察によって導かれる法則は、共通の出来事をそれ以外の出来事と選別しながら同時に法則自体を拡張し、より多くの出来事に適応しうる法則、すなわち、より一般的・普遍的な根拠(=真理)をもつ体系へとそれ自身を練り上げ、現象と言説が互いに融合し合う認識論的な場を形成する。言い換えればそれは、写真を見ることと語ることとが互いを「写真」という制度に内在化し、かつ内在化を保証し合う装置の形成である。そうした認識論的な場とは、作ることと読むことの自明の根拠となり、また、いかなる作る行為・読む行為もその根拠のうえでなされる以上、「写真」にかかわる者が逐次形作りまた同時に自身を拘束する、誰にも直接問うことができないような不可視の装置である。その意味で近代以降の写真批評とは、「写真」という制度・「写真」という物語を語る装置であるとも言えるだろう。
 そうした装置としての批評は、疑自律性に支えられた根拠によって写真を体系化(秩序化)し同一化された地平にそれを位置付ける。作ることと読むことが織り成す「写真」という体系は、その根拠が疑自律性に支えられたものであるがゆえに、写真を語ることによって誰もが共有しうるものでありながら、同時に、その体系をより知っている者がより饒舌にそれを語りうるという不可視の序列を含みもっている。つまり、そこでは必ず、より知っている者(専門家)とその知を享受する者(大衆)という二項対立による分割が暗黙の内に形作られており、その分割による体系・秩序のかたちは逐次変更されるものの、分割の境界線そのものは不可視の内に存続する「写真」という領域が保持されている。したがって、近代以降の批評が作品を語ることの内にそれを語る自己への問いを不可避的に抱えもつことを考えるならば、そうした批評の自己言及の根拠を吊り支えている「写真」という制度によって、疑似的なものにもかかわらず絶対的なものとして機能する二項対立が生み出され、それが写真を序列づけ同一性の地平に融和させる領域としての「写真」を形成していることが現在では明らかな以上、今日的な意味での批評は、たんに作品についての自己言及のみならず、自らが立脚する「写真」という制度・「写真」という物語、そして「写真」という領域への自己言及に無反省的な場所では成立しえないはずである。そうした構造に無自覚な批評とは、いかにそれが写真の可能性あるいは写真の制度性を語っているように見えようとも、「写真」という制度・「写真」という領域についての問いかけが欠落している以上、「写真」という体系の価値の序列の一元化をより促進するものとして機能するものにすぎないだろう。
 よって現在、写真批評は、それ自身立脚している制度としての「写真」、すなわち同一性と差異によって織り成されている写真のパラダイムのかたちを見きわめようとする自己批評的な視点をもたずに何ごとかを語りはじめることは出来ないだろう。言い換えれば、写真を批評するパラダイムの内で自らがどのような立場をとり、また自らの言説がどのように機能しているのかに自覚的であることが、今日的な写真批評の条件とも言えるだろう。そうした意味で、例えば、一方で自らの言葉が暗黙の内に「写真」という領域を措定しかつそれを根拠としているにもかかわらず、他方で写真は越えるべき境界を見い出してはいない等と述べることで、無限定な「写真」という枠組みを自明性のもとに措定しつつその制度性を隠蔽し、「写真」という体系の疑自律性があたかも絶対的な自律性によって支えられているような架空の場を設定することによって、立場なき立場から語るような、自らの言葉が立脚する写真を批評するパラダイムにまったく無自覚な言説は、批評の無限の退行とでも呼ぶべきものであり、また今日においてもっとも反動的なものであると言えよう。