texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[キーワード'90〜写真を読むために5:同時代(コンテンポラリー)/日本カメラ1990年5月号:136-137]


 ロバート・フランク(Robert Frank)の『アメリカ人(The Americans)』が現代写真(コンテンポラリー・フォトグラフィー)の起源であり出発点であるという記述を探すのは、さして難しいことではない。現代写真を扱った項がある本を捲れば、それに類する記述の一つや二つは必ず見つけることができるだろう。だが、現代写真とは、はたしてそうした通時的なパースペクティヴのもとで一義的に把握しうる性格のものなのだろうか。
 近代的科学観による発展図式にのっとった歴史観にそって表現の諸問題を考えた場合、文化のカテゴライズや美術の細分化といった相互の差異を強調する形でしかそれをとらええず、それは例えば、美術が美術を目的とする「純粋化」による美術自体の制度化といった結果を必然的に招く。そうした図式のうえで生み出される多様性とは、じつは、諸ジャンルを次々に細分化していくと同時に囲い込み固定化することによってもたらされる相対的なものでしかありえず、結局はそのジャンルに属する者にしか見えない地平へと表現を追い込むからである。むろん写真もその例外たりえるはずはなく、現状をみるかぎりにおいて、美術という枠組みの中での写真というジャンルとしての役割を与えられ、確実に閉塞化への道筋をたどっているというのが実状であろう。
 そうであるなら、なぜいま、そうした状況をことさら加速し、さらに写真を閉ざされた枠組みへと追い込むような、単一の視点による歴史的記述のみが繰り返されなければならないのだろうか。写真表現の自足性をあらかじめ措定したうえでの、写真を中心に置いた一元的価値観による歴史の記述は、いっけん写真表現の基盤とでも言うべきものを着実に築いていくように見えながら、じっさいには限りなくその可能性を狭めていくものとして機能するものにほかなるまい。そうであるならば、いま私たちが試みなければならないのは、写真があたかも独自にその流れを形作ってきたかのように構築していく記述ではなく、同時代の文化との関連のうえで写真をとらえかえす共時的視点による写真の考察ではないだろうか。というのも、前回述べたように、近代以降の問題として考えなければならないことは、いついかなるところでもインパクトを持つ純粋で普遍的な作品などは存在しえず、ある様式(モード)を把握せずに作品を語ることは原理的に不可能であり、その意味で、批評がいかに様式を把握し、その同時代性につきあたっているのかということが問われなければならないはずだからである。だとすれば、現代写真を文字どおりコンテンポラリー(今日的)なものとしてとらえようとする場合、そもそもその同時代的広がりは、一元的な歴史的パースペクティヴからでは位置づけることのできない性格のものであり、写真史にコンテンポラリー・フォトグラフィーの一項を付け加えるといった手続きは、その性格にまったく相容れないという根本的な問題をもっているということを、明らかにしておく必要があるのではないだろうか。
 そうした視点から現代写真を考えるとき、例えば、『ライフ』的写真が衰退し、フランクの『アメリカ人』が登場し、その後に“コンテンポラリー・フォトグラファーズ”が続き……といった流れのうえで、『アメリカ人』が現代写真のはじまりであったとするような解釈から読みとれるのは、フランクの写真が現代写真と呼ばれる所以の同時代性というよりは、むしろ、写真の歴史がその独自性にこだわるあまり、一義的解釈を通時的序列にのみ位置づけ記述し、あたかもそれが唯一の客観的事実であるかのように流通させている言説の在りようだろう。なぜなら、『ライフ』に代表されるフォトジャーナリズムの啓蒙的メッセージ伝達が失効したことを、フランクの写真が人々に訴えかけた理由とするのは、結果を原因とみなしたうえで出来事を序列化しているにすぎないからだ。こうした問題は、現代という問題群・同時代という共時的タームを立てておきながら、写真史という特定された歴史的(通時的)序列にのみ解釈を与えようとする強引さに由来しているはずである。 60年代の直前に出版されたフランクの『アメリカ人』が、当時の人々にとって充分リアリティのあるものであり、またそれゆえに彼のスタイルが写真に画期的な影響を及ぼしえたということを、なにもここで否定しようとしているわけではない。そうではなく、『アメリカ人』を現代写真としてとらえようとするならば、当時、何ゆえにフランクの写真が同時代の人々に訴えかける根をもっていたのか、そして、それはその時代においていかなる共時的関係からそうした変容をもたらしえたのかということに言及することを試みることこそが重要なのではないのかと問うてみたいのである。
 そうした試みの一つとして、例えば、当時の大きな文化的潮流であるビート・ジェネレーションと『アメリカ人』との関連を見ることで、なぜフランクの写真が当時の人々にリアリティのあるものであったのかという動機を探り出すとらえ方がありうるだろう。そうすれば、そこに、図式的歴史観にのっとった写真独自の問題というより、文化的・社会的な価値関係の網の目としての写真の問題が浮かび上がってくるはずである。そして同様に、そうしたとらえ方によって、“コンテンポラリー・フォトグラファーズ”から(いくつかの例外はあるが)ビートの感性とでも言うべきものを読みとることではじめて、それをフランク的スタイルの展開としてではなく、変容としてとらえることもできるはずである。むろん、そうした視点は、日本の「コンポラ写真」をも問いかえす契機になりうるはずだ。さらに、現代写真が写真の独自性を問題としなければならないとするのなら、こうしたことを踏まえたうえで、つねにその関係の網の目からはみだし、それを編み変えていくといった写真の在りように触れなければならないということが明らかになるだろう。
 もちろん、こうした試みにしても、読み・語ることに客観的(中性的)なパースペクティヴなどありはしない以上、それは、様々な事象を過去という時制において一定の関心(=利益)によって導き記述する歴史化のプロセスとして結果的に機能せざるをえない。また、読み・語ることは、つねに事後的にしか成り立ちえないという性格を持つ以上、いかにそれを回避しようとしても、様々な出来事をある体系にそって位置づける解釈として、語ることの内で出来事を歴史化していくことが宿命づけられている。結果を原因とみなすような遠近法的倒錯は、言葉にかかわる以上けっして越えることのできないそうした宿命へのあきらめの中で人をつかむのである。
 だが、だからこそいま、もっとも在り方として、現代という問題群・同時代という今日的問いについて語る根源的な不可能性を踏まえつつ、共時的な問いの立て方を模索し、たえまなく試み、出来事を統合する力として作用する一元的歴史の構築と拮抗しうる不連続・断片的で多義的な言説を組織する実践において、その問いの今日性=同時代性を逆に照射することが必要とされているのではなかろうか。一元的な写真の展望を設定するということもまた、過去という時制から演繹される未来像である以上それを退け、そうした試み・実践そのものを展望として反復することにおいて文化的状況に連動する契機を開いていくことこそが、同時代的問いの所在であり、またそうした関連性のうえで写真をとらえることが「現代写真」たる条件なのだと言えるのではないだろうか。そして、忘れてはならないのは、あたかもどこかに純粋で普遍的な写真表現があるかのように思い込み、個々の領域を囲い込むことで生まれるみかけの多様性に依存することは、いっけん現代写真にアクチュアルに関わっているようにみえながら、じつは決定的にその同時代性を閉ざしているのだということであろう。