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[キーワード'90〜写真を読むために2:大型カメラ/日本カメラ1990年2月号:128-129]


 写真術が発明された当初、写真機はすべて大型カメラであった。そして写真機という機械が科学技術に裏付けられ登場した以上、その後カメラがより軽く小さく携帯性に富み、簡単な操作で扱える機械へと変化していったのは、当然のなりゆきと言ってよいだろう。写真の歴史が直接的ではないにせよ、写真機のそうした進化とは切りはなせない関係で形作られてきたことは間違いない。写真機の進化は、その時代によって、新しい(簡単な)カメラの登場を拒む世代の抵抗にあいながらも、それをごく当然に用いる世代によって確実に写真に迎えいれられてきたのである。それは例えば、手持ちでの撮影が可能になったことにより生まれた写真がどれだけあるかを想像してみればすぐに分かることであろう。
 ある時点までに区切れば、こうした写真機の進化を、次のように整理して考えることができるだろう。技術の発達とともに写真機がどのように変化してきたとしても、その原型はカメラ・オブスキュラであり、光学装置によって結ばれた像を化学技術によって乳剤に定着する機械であることには変わりがないということ。そして、その原理的には変わることがない範疇での写真機の進化は、写真家たちの機材の選択に幅を持たせ、背後から確実に写真の歴史の厚みを支えてきたということ。
 70年代の後半頃から、多くの写真家たちが大型カメラを意図的に使った作品を発表しはじめ、それが現代写真の一つの潮流としてとらえることができるほどの出来事であったことを考える場合、こうした写真機の変遷と写真の歴史のつながりを考慮しつつ、なぜ彼らがあえて大型カメラという機材を選択したのかを問うてみることは、ことのほか重要であるように思える。
 写真機を遠近法の認識論的装置として考える限りにおいては、カメラの形や大小にかかわらず、その機能に変わりはないはずである。写真術が発明された時、一つの技術として獲得された遠近法のリアリティーとは、その後のいかなるカメラにおいても保証されているものなのだから。写真の多様性は、ある部分においてはそうして多様化した写真機によって支えられてきたと言ってもよいはずである。例えば、私たちは、『コンテンポラリー・フォトグラファーズ展(1966)』などに象徴される小型カメラによるスナップ・ショットという技法を用いての写真などに、機械の進化によっての遠近法のリアリティーの拡張を見ることができるだろう。大型カメラで撮影された写真の魅力について、私たちは「8×10の大型カメラによるリアリティー」などと一言でかたずけてしまいがちであるが、もしそれが写真のリアリティーを指してのことならば、程度の差こそあれ、それは大型カメラのみが持つ独自のリアリティーではないはずである。にもかかわず、大型カメラによる作品をとりかこむ言説はいつも、あたかも大型カメラのみが写真本来の機能を体現しているようなニュアンスをともなっている。なぜ70年代にそのような、機械の進化による写真の可能性をあえて排除したうえでの、19世紀の古典的な写真像への突然の大掛かりな回帰が、写真の文脈において必要とされたのであろうか。
 70年代の後半はいくつかの局面で重要な転機が写真を訪れた時代である。一つは、電子工学の発達の波がカメラにも押しよせ、写真機が、その背後に立つ写真家の意思を忠実に反映する透明な機械から、ある意味で「思考する機械」へとブラックボックス化していったということ。このことは、カメラの小型軽量化などよりも、はるかに根本的な機械としての写真機に対する概念の変更を要請しているはずである。もし、写真がこの「思考する機械」を全面的に歓迎し引き受けていくならば、写真機の背後に立ちそれを自由にあやつることで素朴に保障されてきた写真家の主体としての優位性は、やがて自明のこととして片付けるわけにはいかなくなるのは明らかであり、電子工学の発達が、写真の記録媒体を乳剤という化学の産物から科学的な記録媒体へと変えていき、そのことが例えば写真とヴィデオといった単純な分類による写真の独自性の主張を無効にしてしまうのは時間の問題にすぎないからである。このテクノロジーの革新は写真にとって二次的なこととしてすませうるような事態ではない。もしそれを引き受けるならば、従来の写真についての認識は不可逆的な変化を遂げるであろう選択なのである。そしてもう一つは、前回述べたように、この時代、広義でのドキュメンタリー・メディアとしての写真がその有効性を急速に失い、美術という枠組みに写真が位置付けられることを余儀なくされたということ。ある意味で、写真家たちにとってはこの写真の芸術としての公認(写真が美術館に入るといった意味での)は歓迎すべきことでもあったが、それは同時に写真と美術の差異を美術という枠組みの中で改めて主張しなければならない事態でもあったはずである。写真の文脈のうえでは、この時代に生まれたコンセプチュアルな写真の作品が必ずしも正当に評価されていないばかりか、そのなかでも写真の独自性に問いかけていく類いの作品が、論点をずらしたうえでしか語られていないことがそのことを結果的にあらわしているだろう。
 大型カメラへの突然の回帰とは、このような背景のもとで、写真家が作品に対して主体としての直接的な位置を保持しつつ、美術と写真の差異をダイレクトに主張する方策であったと言えよう。それは、写真が写真を模倣することで、写真が絵画を模倣し、絵画が写真を模倣するといった構造の歴史をひとまず精算しようとする、いささかアクロバティックな写真の起源と独自性への回帰であり、またそこに、テクノロジーによって曖昧になっていく「私」と「世界」の関係を、もう一度素朴な透明な機械としての大型カメラを間に置くことで回復しようという写真家の郷愁を見ることができるだろう。その意味において、写真本来の問題にたちもどろうという身振りにおいて行われた大型カメラへの回帰は、実は写真術の完成(認識論的装置の完成)の驚きだけが抜け落ちた、同語反復的な、図式的な営みにすぎないと言えるのではないだろうか。それは例えば、写真(カメラ・オブスキュラ)を写真(大型カメラ)に繰り込むという手続きによって、引用・複製といった写真においてはじめて明確にあらわれた問題が、写真という枠の中に囲いこまれ再び隠蔽されてしまったことを考えればよくわかるはずである。その意味において、例えば、現代の大型カメラによる作品をF64グループなどによる作品とを比較して、前者は現実の環境を見つめているのに対し、後者は内的な理想像としての世界を構成しているにすぎないといった類いの差別化による優位性の主張は、なんら有効ではない。それは、安定した認識論的な場を用意したうえで美意識のずれを問題にしているにすぎないのだから。
 現代においての大型カメラによる写真を見るとき、小型カメラによる写真を見慣れた私たちがまず気がつくのは、肉眼による知覚とは次元の異なった対象のあらゆる細部の忠実な描写であろう。このことを率直に認めるならば、私たちが感じる大型カメラによる写真の魅力とは、おそらく19世紀の人々が感じたような対象が遠近法の機械によって世界の模写として印画紙上に再現されているリアリティーなどと言うよりも、むしろ対象が無限のディテールを含んだ印画紙のマチエールへと置き換えられていることにあると言うべきであろう。直接的な写真家と対象(世界)との結びつきを大型カメラによって取り戻そうとした現代の写真家たちの試みは、皮肉にも彼らの写真が対象そのものというよりも無限のディテールを提示してしまったことにより、結果的に、写真家と世界の透明な関係の回復の不可能性を物語っているのではないだろうか。そして、それは、認識論的な問いを保留にしたままでの、あたかも大型カメラの機能それ自体が自動的に写真の独自性を証明するという現代の大型カメラの使い手たちの身振りが、逆説的に、写真の独自性を疑いのないものとして囲い込んできたことによる写真の文脈における認識論的な場の不透明な在り方を露呈してしまったことに他ならないのではないだろうか。大型カメラそれ自体には、何の神秘性も含まれてはいない。私たちは、むしろ、大型カメラが写真の神秘(魔術性)を体現しているように語る神話的な言説にこそ、写真の制度を見るべきなのである。