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[キーワード'90〜写真を読むために1:構図/日本カメラ1990年1月号:132-133]


 考えてみると、私たちが構図を写真の重要な条件としてとらえていることは少ない。構図が写真の要素として、とりあげられることがないというわけではない。確かに、構図について語られることは多いが、それらは単に構図を写真に付随してくる二次的なものとしてとらえているにすぎないように思えるのである。
 たとえば、「意図を感じさせない構図」といった言い方がそのことをよくあらわしている。「意図を感じさせない構図」ということを意図する、あるいは、そうしたものとして構図を読みとることは、暗に構図の背後に見るべき何かを想定している。そこで想定されている「何か」、それは言うまでもなく、写真の持つ独自な「何か」であろう。優位な「何か」を背後に想定していかに構図について語ろうとも、逆にそれは、写真においての構図の機能を隠蔽するにすぎないだろう。では、構図を吊り支えてきた写真固有の「何か」とはいったい何なのだろう。構図について考えることは、同時に、その時々でいわば自明とされてきた写真の独自性について問うことでもある。構図という言葉にとらわれて語り急いでは、逆に構図を見失いかねない。写真の歴史をこうしたことを踏まえつつみるという大きな迂回をしながら、少しづつ近づいていくことにしよう。
 写真はなにも突然発明されたわけではない。写真機の母体としてのカメラ・オブスキュラは15世紀の線遠近法の出現とともに、すでに画家たちの間でひろまっている。線遠近法という一つの科学的根拠に基づく視覚の再現としてのリアリティーへの欲望が、その像を手でトレースする代わりに、科学的なプロセスで定着する感光材料を発明し、それが写真術の発明と呼ばれているにすぎない。線遠近法とは、科学的な方法によって世界を把握するためのいわば「窓」であり、客観性に基づく自然の忠実な模写としての風景画が絵画の支配的な一ジャンルとなった19世紀に写真術が完成されたことを、世界を見る「窓」が完成されたと言い換えることもできよう。だが、写真術の進歩とともに、今日人々が写真に驚きを感じないように、その客観性のもつリアリティーへの驚きは忘れられていく。そして、その後の印刷術の進歩などが、写真の特性をメディアの中へと置きかえていく。写真がメディアの中で発揮した力とは、その客観性に基づく臨場感(アクチュアリティー)であり、注意しなければならないのは、ここでその「窓」としてのリアリティーが微妙にねじれていることだ。すなわち、その客観性(リアリティー)が何の驚きも感じない自明のこととされることによって、臨場感(アクチュアリティー)が強調されてゆくのである。今日、私たちが言う写真の記録性は、このリアリティーとアクチュアリティーが混じり合っているものだ。しかし、テレビ・ビデオなどの登場が急速にそのアクチュアリティーを写真の代わりに担っていく。ここで改めて指摘するまでもなく、1955年の『ファミリー・オブ・マン』展(ニューヨーク近代美術館−MOMA)が反語的にそれを語っているだろうし、1972年の『LIFE』誌の廃刊がその象徴的な出来事だろう。フォト・ジャーナリズムの衰退の原因は、よく言われるように人間中心のメッセージの欺瞞が明らかになったということだけにあるのではない。かつて写真が絵画からリアリティーを奪ったように、写真は他のメディアにアクチュアリティーを奪われたのである。逆に言えば、そのことによってそうした欺瞞に直面せざるをえなくなったにすぎない(テレビをつければ今日でも新しいアクチュアリティーによる人間中心のメッセージは流れているし、また人々はそれを好んで見ている)。こうした観点から見たとき、『コンテンポラリー・フォトグラファーズ』展(1966年・ジョージ・イーストマン・ハウス)、『ニュー・ドキュメンツ』展(1967年・MOMA)などにみられる写真の動きを、単に写真家の内省に基づく違った方法でのドキュメンタリーの模索というよりも、奪われていくアクチュアリティーヘの写真のあがきとして考えることもできるはずだ(むろん、このあがきは今日でも続いている)。
 こうした流れの中で写真を考えるとき、1978年にMOMAで開かれた『ミラーズ・アンド・ウィンドウズ(鏡と窓)』展は、同時期にみられる「写真と美術」といった曖昧さを含むとらえかたよりも、写真が80年代に直面する事態をはるかに明確に予告した展覧会だったと言えよう。キューレーターのシャーカフスキーは「どの写真家の作品も、この両極(写真を自己表現の手段ととらえる鏡派と外界の探求の方法ととらえる窓派)のどちらかに完全に分類するのは不可能だ」と知りつつ、なぜこのような二分法を用いたのだろうか。「ここで展開される基準は、右のような言葉(リアリスティックとロマンティック)で定義されることが可能な両極を持つ、一本の連続した軸なのである」と彼は、二分法は一本の連続した軸を示す便法にすぎないと言う。『ミラーズ・アンド・ウィンドウズ』展が予告した事態をみるには、便法にすぎない二分法にとらわれず、その向こうの一本の連続した軸でもなく、まず展覧会自体を俯瞰してみる必要がある。「1960年以後のアメリカの写真」と副題が付された同展は、『ファミリー・オブ・マン』展以来のMOMAの大規模な写真の展覧会であった。重要なのは、この展覧会が写真の文脈で行われているということである。その展覧会にアンディー・ウォーホル(Andy Warhol)やロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)などの作品が入っている。「写真と美術」といった表題を抱えているわけでもない同展が、排除することもできた美術家を、あえて百人にものぼる出品作家に含めていることに着目したい(山岸章二氏はこう言っている「最初に一歩そこへ足を踏み入れたとき、これはもう写真展というより、モダンアートそのものの展示場という感じがした」)。ここで予告されていることは、広義でのドキュメンタリーという枠組みでの写真の終焉であり、写真が再び美術という枠組みに位置づけられることが余儀なくされるという事態ではないだろうか。シャカフスキーは、この時その深刻さを予感していたように思える。実際、写真の80年代を漠然と形容する「“撮る”から“作る”時代へ」といった言葉で事態をやりすごしていた多くの者たちは、その深刻さを理解していなかった。そうした風潮に対して、彼は言っている。「“ストレート・フォトグラフィー”、すなわち、映像の基本的な性格づけは、露光の際にカメラの内部で行われるものであるという見解の写真と、“マニピュレーティッド・フォトグラフィー”、つまり、カメラで撮られたイメージが過程での操作を経て、ラディカルな変貌をとげた写真というような分類は、現実的であり、当然のものであり、おそらくは美的一貫性に対する対照的な、そして完全に相反したふたつの概念を定義づけているといってよい。しかし、現実的であったとしても、その分類は、分析の道具としての重要さをあまりもってないといえる。というのは、その分類が、基本的に排他的なものの上にのっとっているからであり、結果として全部の写真をふたつに分けることにしかならない。分類自体が目的に終わってしまうのだ。」と。事実、80年代をふりかえってみると「“撮る”から“作る”時代へ」といった合い言葉は、そのあまりに明確な二分法を表面に掲げることで、写真が直面していた事態を、あたかも写真と美術の蜜月時代のようにすりかえるものとして機能していたと思えてならない。
 こうして『ミラーズ・アンド・ウィンドウズ』展をみてみると、そこからいくつかの重要な出来事と、暗示されていたことを読むことができる。今日写真は、写真という枠組みに美術を招き入れたわけではなく、実際には、美術という枠組みに写真が位置づけられているのだということ(このことは前述した写真のあがきを可能性としてとらえる楽観的な期待に終止符を打つだろう)。そのことを自覚することは、曖昧に写真の位置をとらえることで延期し続けてきた、制度としての美術という遠近法のなかで写真を見るという出来事に私たちを直面させるだろう。制度としての美術という遠近法−たとえば、美術館・写真部門・展覧会・フレーム−それは、『ミラーズ・アンド・ウィンドウズ』展そのものでもあるのだ。私たちは、写真そのものを見ると称しながら、実は美術という遠近法が持つ幾重にも重なるさまざまな「窓」をとおして写真なるものを見ているにすぎないのではないだろうか。このことを自覚せずに、安易に写真と美術の差異のみを強調することは、結局、写真が美術のパースペクティヴ(遠近法)に単にもう一つの「窓」を提供する営みに終始するだろう。こうした言い方は写真の可能性を否定するものととらえられがちだが、実際には逆に、曖昧さを可能性にすりかえるような認識こそが、写真から可能性を奪ってきたのである。
 こうしたことを踏まえたうえでの写真の可能性−それは、限定されたものにならざるをえないのだが−、私たちはそれを「鏡と窓」という二分法からみることを試みることができる。「窓」が写真のもつ遠近法のリアリティーだとすれば、「鏡」とは表面、写真術を完成させたあの乳剤のマチエールだろう。150年の混乱のはてに、限定された可能性の中心としての「鏡と窓」を引き出すために、構図はスタイルとしてではなく重要な機能として写真に連動されるのを待っている。

(引用文は全て「カメラ毎日」1978年10月号より。但し、引用に当たっての省略・要約あり。)