texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[〈風景〉意識の変容/『エイティーズ・八〇年代全検証』河出書房新社 1990年7月刊:205-206]


 風景という言葉が、写真においてもちいられるとき、ある不透明さが避けがたくあらわれてくる。言うまでもなくそれは、風景を写真において語るときに、すでに私たちは「写真という風景」、すなわち写真においての認識論的な配置を前提にしていることに起因している。ごくごく単純に「何が写っているのか」というレベルで、つまり、これは「風景写真」か「肖像写真」かといったレベルで風景という言葉をとらえるのでない限り、写真において風景意識を考えるときには、ふだん具体的で客観的だと思っている「写真という風景」という前提をも同時に考えざるえないのである。逆に言えば、こうした事情のもとで風景意識をとらえないかぎり、話は「写真という風景」のパースペクティヴにすっぽりとはまりこんだ退屈なものに終始するにすぎないだろう。
 ここでは、「写真という風景」について直接ふれる余裕はないが、80年代の写真の風景意識をこうした事情を含みつつ考えていきたいと思う。そのためには多少の迂回が必要である。
 60年代終わりから70年代初めは、風景が写真のなかで積極的に問われた時代である。ブレボケ写真という言葉で括られる「プロヴォーク」の写真は、風景を何者かによって構成された世界としてとらえ、写真における風景を単なるその表象としてではなく、いかに自らのものとして身体化しうるのか、という問いにはじまっていると言えよう。何が写っているのか判別しがたい(ブレボケ)画面は、与えられたものとしての外的世界の拒絶の表明であり、内的世界としての風景のリアリティーを獲得するための方法であった。他方、「コンポラ」と総称される写真は、横位置のフレーミング、広角レンズの多用などの方法によって、画面に写っている何かが中心として機能してしまうことを、きょくりょく排除していこうとする写真であった。それ以前、被写体と呼ばれたものが、この時期、対象と言い換えられていったことがそのことをよく示している。そこでは、被写体があり背景があるのではなく、画面全体が均質な風景として提示されることになる。「コンポラ」の写真はけっして写っているものが何か判別しがたいわけではないが、それを判別することが何ら重要性をもたないものであった。
 むろん、このとらえ方は事後的に「プロヴォーク」「コンポラ」を大雑把な括り方で俯瞰したときの話であり、個々の問題を考慮していない粗雑なものにすぎない。だが、私がここで指摘したかったのは、この時代のこうした「私」と「世界」の関わりの模索の繰り返しによって結果的に写真が形式化されることにより、「写真という風景」すなわち逃れがたい制度としての風景がうきぼりにされていったということであり、かつては画面の枠内の制度性を問うために組織された方法が一般化され典型化されたことが、画面の枠それ自体が内包する制度への問いを余儀なくしたということである。「私」の一方的なパースペクティヴによって「世界」と取り結ぶという意味での風景のとらえ方への疑問が結果的につきつめられたことにより、「何を」「どのように」見たのかという枠内での写真の提示がその有効性を急速に失っていったのである。「プロヴォーク」のラジカルな問い、「コンポラ」の加速は、それ自体がもつ「写真という風景」(制度性)を結果的に明らかにするとともに、その方法の限界をも逆に照らしだし、写真は根本的な風景意識の変更を迫られることになる。
 70年代後半は、時代の熱さが失われるなかで、こうした困難に直面し退路が絶たれた写真家たちが、局所的な試みを強いられていった時代だと言えよう。「写真という風景」というメタ・レベルの制度が明らかになった以上、かつてのような一義的な根拠へと回収されうる方法論が有効性を発揮し時代の大きな流れを形づくることもなく、個々のレベルでさまざまな方法が模索されるが、それは、必然的に決め手となる性質のものであるはずがなく、必ずある種の歯がゆさをともなっていたと言えよう。
 そして80年代、従来の意味での世代というまとまりを欠き、拡散してあらわれてきた若い写真家たちが、方法論的に行き場のない状況というある種の抑圧を解いていくことになる。そうした状況を行く手を阻むジレンマのように感じる若い写真家たちによって、どのような方法であろうと、それが、とりあえずのきっかけとして肯定されるという転倒が徐々に浸透していったのである。むろん、それは若い写真家たちの動きのみによって起こったわけではなく、そこには抑圧が解けるきっかけを待ち望む気分がそれまでの写真家たちによって形成され用意されていたに違いない。また、ポスト・モダン的タームを援用し、こうした転倒を結果的に肯定していった批評も、こうした現象の加速度的な浸透に重要な役割を果たしたと言えるだろう。
 写真をとりまいていったこうした雰囲気のもとで、風景意識という認識論的な場への問いのために組織され出尽くしたとも思われるさまざまな方法は、むしろファンクションの選択の幅の広がりとして歓迎すべきことがらへと変わっていく。たとえば、この時期、「現代美術と写真」といった枠の括り方が一般化していったことが、個々の問題が全体の問題(と言うよりもむしろ全体の気分)へと横滑りしていったことをよくあらわしているように思える。
 では、彼らはそれらのファンクションを手に何に向かっているのだろうか。「写真という風景」というメタ・レベルへの問いを永遠に保留する戦略によって目論まれているのは、意味の世界とのダイレクトな交感であろう。さまざまな方法に読みとれる問題意識は、彼らにとってはむしろファンクションの選択において付随してきた装飾的な細部であり、かつてのようにそれ自体に重要性が置かれているわけではない。このように転倒された構造においては、方法を「写真という風景」という問いにおいて検討する営みが、結果的には見かけの多様性としての細部の装飾性を構成し、その構造を補強する要素へと化してゆくことすら珍しくはない。彼らは、「世界」と直接取り結ぶことを可能とする新しい関数を手に入れ、風景意識という障害物をいきなり超えたのである。風景意識をいわば剥奪するという、この終末論的な決意による、彼らの身を呈した果敢な記号論的なシミュレーションはこれからどこへ行くのだろうか。