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[写真の規則13:写真を思考する場をめぐって/FILM ROUND GAZETTE 1990年12月号:4]


 写真、と私たちは一口に言う。だが、そのとき指し示される写真とはいったい何なのだろうか。反省的に写真なるものを振り返ってみると、たちまちのうちに私たちは写真の輪郭の不明瞭さに触れることになる。むろん写真に一定の定義を与えることは、さほど難しいことではないだろう。それを、写真機の機構から規定することもできるだろうし、あるいは、写真的領域に属するものとして語られてきた作品の文脈から帰納的に導き出すこともできるだろう。しかし問題は、そうして写真なるものに一定の機能・領域を見い出だそうとすることそれ自体が、そこからこぼれる写真なるものを逆説的に指し示し、すぐさま写真の輪郭の不明瞭さを浮かび上がらせてしまうことにある。
 写真と一口に言うとき、いったい私たちは写真をどのようなものとして語っているのだろうか。そのとき、写真の何について語っているのだろうか。写真に定着された像について?、写真のマチエールについて?、その写真とそれを写真なるものに作り上げた者との関係について?、あるいはその写真が所属するとともに意味を滑りこませるであろう社会的・文化的文脈との関係について?・・・。無際限に設定しうるであろうこのような問いは、しかし、問題を限定するどころか、それを語り出すとともに別の位相の問いを呼び起こし、問い自体を抽象的な領域に連れ出さずにはおかないだろう。
 こうしたことは、写真について語るとき感じる奇妙なねじれにおいて常に見い出だしうることのように思われる。つまり、写真についていかに語ろうと、それが写真それ自体については何も言い当ててはいないように感じると同時に、にもかかわらず、写真について語ることそれ自体が、そうした言説を背後で保障する写真的領域より導き出され、かつそれを形作っていることを確認せざるをえないことにおいて。
 写真なるものの領域を実体的に想定するかぎりにおいて、このようなことを私たちは写真を思考することそれ自体にいわば内在する逆説的な特徴として捉えざるをえないだろう。写真を見ること、そしてそれを語ることの決定的な隔りとして。あらかじめ写真なるものがあり、それを語るというある種の階層関係を前提としておくならば、いかなる写真にまつわる思考も、それ自体が引き出す言語的な領域によって、写真なるものを決定的に閉ざしてしまっていることになる。
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 しかし私たちはここで、そうした写真なるものをめぐる思考における振幅、運動性それ自体を、写真的領域を社会的・文化的価値の網の目のなかに立ち上げ、写真的領域それ自体を移動させるとともに価値の網の目自体を組み替え、あるときは特定の写真的領域を消し去るとともに、新たなる写真的領域を形成していくといった、断片的で非対称的な言説的実践の場それ自体をまさに写真的関係の網の目として編み上げていく、ある特定の序列関係として捉えることはできないだろうか。すなわち、いっけん写真の外部において立ち上がっているようにみえるさまざまな関係の網の目を、写真の内部として編み上げていく両義的ありようの運動性を、写真なるものとして考えてみることはできないだろうか。
 写真を見ること、そしてそれを語ることは、決定的に隔っている。私たちは見ることを語ることはできないし、語ることを見ることはできない。しかしこのことと、見ることが語ることを覆い隠し、語ることが見ることを覆い隠すと考えることは、まったく別のことである。見ることと語ることは互いに独立したある種の系列をそなえていると考えられるが、同時に、見ることは語ることにある契機を与えずにはおかないだろうし、語ることは見ることにある契機を与えずにはおかないものだろう。だがそれは、見ることと語ることが一方が他方を優位性のもとに位置付けているということではけっしてないだろう。そうではなく、写真を見ることの系列とそれを語ることの系列は、ある特定の仕方で互いに干渉し、写真の言説的実践の場、あるいは写真を見ることの言説的実践の場を形作るのであり、そこには干渉の関係の固有性はあるものの、それは切り離して単独で捉えられるものではないし、ましてやどちらか一方を優位において捉えることはできない。
 写真なるものをそうした見ることと語ることの、写真と言語の関係の場において思考すること、すなわち、写真なるものを実体的に想定し、それが言語によって意味付けられると考えるのではなく、写真と言語の関係の場においてこそ意味が立ち上がり写真なるものの輪郭が形作られると考えること、これは、写真を具体的場面において考察するために要請される微妙だが根本的な、写真を思考することにおける立場の転回ではないだろうか。

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 さまざまな場で繰り返し言われているように、十九世紀から今日に至るまで、写真なるものの領域、あるいは写真なるものが位置してきた社会的・文化的関係はけっして一様ではない。また、今日の写真状況を考えてみても、写真が機能する場面やその様相はけっして写真的なる一定の範疇に収められるものではない。写真の実践的場面は、歴史的軸においては、例えば乗り越え乗り越えられるといった位相関係において、また同時代的軸においては、例えば分散する写真表現の価値関係として捉えられることが多いが、しかしそうして断片化し分散する写真をそのように対立的な差異のもとに捉えるならば、写真の実践的場面は消え去り、実体的な写真なるものの神秘性のみが浮上することになる。だが、私たちがここで疑うべきことは、そうした差異の対立性それ自体ではないだろうか。つまり、例えば、分散する写真表現とは、まさにそこに対立的な差異をはらむことそれ自体によって、互いのうちに価値関係を内在させるような写真的領域の特有の序列関係によってこそ、分散しうると考えてみることはできないだろうか。
 したがって、ここでの考察は以後、写真なるものを前提とした見る/読む、読み/語るといった写真をめぐる諸関係の考察の試みから、そうした諸関係がいかに特定の問いを形成し、互いをある種の仕方で関連づけ、どのような言説の布置によってその機能をはたすのかといった、見ることと語ること、写真と言語の関係の場における写真の言説的実践の場、写真のディスクールの考察の試みへと移行することになるだろう。ここで述べたことそれ自体のうちにあるいくつもの不明確な点を、そうした試みのなかで少しでも明らかにしていければと思う。