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[写真の規則12:写真を思考する場について/FILM ROUND GAZETTE 1990年7月号:5]


 写真について考えるとき、私たちは暗黙のうちに、対象を写真機の外部に措定し、それを写真機という内部で像として定着するという図式を前提にしていることが多い。しかし、いっけん単純にみえるこの図式は、ある逆説的な関係を含み込んでいる。
 写真を何らかの対象を選びとり像として定着する装置として考えるかぎり、内部で形成される像は、対象の再現としての画像である。だがその一方で、写真機という内部で定着された像は、対象の相似形、もしこう言ってよければ対象そのものでもある。この二つのことを、写真機という機構を軸に単純に統合してしまえば、写真は対象のな再現であるといった言葉に集約することもできるだろう。しかし、ある意味で対象そのものともいえる対象の相似形としての写真が、写真機という機構によってもたらされていることを考えるとき、写真は、たんに対象の相似形であるばかりでなく、それ自体の相似形でもある。ある写真が結果的に一枚の画像としてのみ提示されようとも、それは潜在的に無限のその複製の可能性を含み込んでいるからである。
 「写真は対象の忠実な再現であり、その忠実な再現は無限に反復されうる」。こうした言い方は、ある意味で間違っている。なぜなら、対象の忠実な再現としての写真が、すでにそれ自体の相似形でもあるということを考えれば、対象に従属しているはずの忠実な再現が定着されたそのとき、それは、別の体系、すなわち相似による模像の連なりをも同時に生み出しているからである。「写真は対象の忠実な再現である」ことと、「その忠実な再現は無限に反復されうる」ことは分離不可能であり、「その忠実な再現」の「その」は、無限に反復されうる相似形の任意の一つを指し示しているにすぎない。「忠実な再現」と「忠実な再現の無限の反復」は、写真機という機構によって、じっさいには折り重なり一挙に与えられるのである。
 写真が対象の再現であるとすること、それは対象を客体として外部に措定し、写真をそのコピー(再現)として位置づけることである。そのとき、対象とは外部にある母型とでも言うべきものであり、写真は対象に対して〈うすめられた〉ものとして措定される。つまりそこには、対象を母型として、そのコピーを序列化する体系がある。しかしその一方で、無限に反復されうる対象の再現としての写真は、それぞれがそれぞれの相似であることで、何の序列化もなされえない体系として位置づけられる。それは照合されるべき母型をもたない体系である。この、矛盾しあう二つの写真の性質をどのように考えるかは、忠実な、ということをどのように捉えるかにかかっているだろう。忠実な、ということは、前述したとおり、写真が対象の相似形であることに由来している。相似形が対象それ自体ではないということは、自明のことのように思われる。両者の間には、写真機が存在するからである。しかし、近代の科学的認識観としての遠近法による対象の〈客観的な〉再現が写真機の登場によって「完成」されたことを考えるとき、相似形とは私たちがその認識観にもとずくかぎりにおいて対象そのものでもあるのである。再現を〈科学的に〉成立させる術としての遠近法が写真という認識論的装置によって「完成」されることにより、再現の対象は相似として写真に繰り込まれ、母型としての対象は、ここできわめて不安定な関係に置かれることになる。それは、再現としての機能と相似としての機能が写真において密着していることにより、対象は写真の外部であり、かつ、内部でもあるという両義的な関係である。
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 写真がある対象の再現であること、それは写真が対象に類似していることによってもたらされる。そして類似は、直接ものを指し示し、〈これは〜である〉という肯定(=断言)という言葉と重なり合う。しかし、言葉によって写真を語るとき、それは言語という差異体系によってである。つまりそこには、写真は類似によって示され、差異によって語られるという関係がある。その意味で、写真と言葉が融合することなどはありえず、両者の間には何らかの従属関係があるのみである。ということは、写真を考えるには、写真と言葉が相互に干渉することが可能な共通の場が必要とされるわけである。写真を見ることと写真を語ることは決して同じにはなりえない。私たちは、見ることを語ることはできないし、語ることを見ることはない。だが、他方で、見ることの契機はつねに語ることによって引き出され、語ることの契機はつねに見ることによって引き出されている。類似による再現(=表象)と〈これは〜である〉という肯定(=断言)の交叉が、見ることと語ることの関係の網目を織り成すからである。
 写真と言葉を区別することによって写真そのものを語りうるという考え方は、その意味で転倒している。なぜなら、写真を語ること自体が、写真そのものを言いあてることと同じではない以上、写真を語ることそれ自体は、目の前にある写真(あるいはそれを語るために想定している写真)と重なり合うことがないからである。写真について考えること−写真を見・語ること−は、写真の画面とはまったく別の空間でなされている。写真について考えることは、目の前にある実体物としての写真そのものを契機としてなされることはあっても、つねに実体物としての写真そのものとは別の空間でなされているのであり、写真について考えることとは、見ることと語ることの関係の網目を構成し、またその構成の在りようについて考えることにほかならない。あるいは、もしこういってよければ、逆説的にも写真そのものとは、写真から言葉を差し引くことで抽出される一元的な本質ではけっしてありえず、写真と言葉が相互に干渉しあう不可視の空間そのものなのである。その意味で、写真と言葉を区別することによって写真そのものを抽出し、なおかつそれについて考えることができると考えることは、写真について考えることそれ自体を放棄しているに等しい。

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 再現(=表象)と肯定(=断言)の交叉によって織り成される関係の網の目が、再現と相似という二つの異なった体系によってさらに複合化されていること。このもつれあった写真というきわめて抽象的な関係の網の目について考えるためには、なおさら、写真と言葉が相互に干渉しうる共通の場、そうした関係について考察しうるが不可避的に必要とされるだろう。写真そのものをそうした共通の場から抽出することが可能であると考えることが、実質的に写真について考える可能性を閉ざしていることと同じように、写真がつねに言語という差異体系によって語られることから、写真についての考察が写真そのものとは別にまったく恣意的にしかなされえないと考えることも、写真について考える可能性を閉ざしている。それらは、写真と言葉が相互に干渉しうる共通の場を、写真について考えることそれ自体によってあらかじめ消滅させてしまっているからである。写真という抽象的な関係の網の目を巡り、また、関係の網の目がどのように織り成されているかについて考えること。それが、写真を思考することが可能となる条件とでも言うべきものであり、また、写真を思考する場に他ならないだろう。