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[…起源へ、ではなく/FILM ROUND GAZETTE 1990年7月号:2]


 一枚一枚の写真をただ写真の魅力のあらわれとして見つめ、沈黙し、それ以上でも以下でもないところにとどまり続ける・・・。だが、写真はかつてからこれまでそうしたものであったためしがあったのだろうか?
 そうして見つめることの対象としての写真が、そのものであったとしても、しかし、そのそのものとは架空の場所/架空の起源でしかありえないとしたら・・・。
 鈴木清の写真の提示方法に向けてのいらだたしげな声が、つねにそのものそのものとして見せないことへと収束し、それゆえにある種の正当性を獲得しているとしたら、私たちはなおさら、鈴木清に、ではなく、そうした声が向かっている場所のかたちをこそ、まず問うてみる必要があるだろう。
 すなわち−ただ見つめ、沈黙すること自体が語られることとは?そうした饒舌からの無限の後退自体が、その装いにもかかわらずいささかも控え目なものではなく、饒舌に語られていることとは?−と。 
 回帰すべきとされる起源とは、さかのぼりうるある地点ではなく、あの時代以降、写真がおさまるべき場所として繰り返し形成された言説の配置にほかならないのではないだろうか。〈写真に向き合う者は、見えるものから意味を読み取ることを迂回しつづけ、見ること自体を宙吊りにし、そうしたことの臨界点を写真として固定することをとりあえずの流儀としてきたはずだ・・・〉。語ることによって生じる見ることの空白が、固定され、ふたたびそのものとして語られることで配置される言説−そうした言説は、まさにみずからが語る場所を起源に代行させ、隠蔽するものにほかならないだろう。そのとき、戦略的に選びとられたはずのその流儀は、見ることと語ることがもつれることもなくただ頷き合う暗黙の了承へとかたちを変える。語ることからの無限の後退自体が語ることによって保証されるという奇妙な事態が、語ることの所在を不可視にする暗黙の了承によって支えられるという循環……、だが。
 循環する無限の後退を、いくつかの方法の導入/場所の組み替えによってふたたび、そしてあからさまに鈴木清は切断する。すなわち、
●みずからの作品を引用すること。それは、引用の引用による引用符の欠落、あるいは、引用符のみの浮上。かつて一つの物語を語ることに奉仕してきた写真は、ここで数々の連鎖/切断の可能性へと放される。それは、かつての作品をも唯一の形態に保証されたものから、ありうべき一つの形態としての作品へと組み替えるだろう。
●写真に言葉を添えること。できるだけ繰り返され馴染みのある写真と言葉の配置をもって。だが、両者が一つの線に重なり合うことが決してないように。すなわち意味を迂回するのではなく、意味の網の目を作ること。繰り返され馴染みのある配置とは、戦略的に置かれた網の結び目、そして網の目のもつれを浮上させる方法にほかならない。
●展覧会・本というモデルに加えて、もう一つ(あるいはそれ以上)のモデルを併置すること。デザイン・ワーク、インスタレーション、コミック、etc。それらが、遊戯的なものであると同時に展覧会・本/写真と不可分なものであるように。それは、見ることにおいてそのつど浮上するテクストの固有性への肯定であり、見えるものから不可避的に読み取られる意味が見ることの深みへと循環することからの脱出線である。
 鈴木清のこうした写真とのかかわりは、まるでそれが当然のふるまいであるかのように平然と打ち込まれる暗黙の了承への楔であるとともに、かつては写真のための口実にすぎなかった諸々の契機を内在の平面に書き込み、新たなる図表をそのつど生み出していく営みでもある。むろんそれは、暗黙の了承に頷くことのみを語る者の義務としてきた言説からみれば、明らかな逸脱であり、またそれゆえに、そうした言説は起源への回帰を求め続けるにちがいない。だが、起源とは?−写真はかつてからこれまでそうしたものであったためしがあったのだろうか?起源への回帰を求め続ける声のかたわらで、しかし、次々と打ち込まれる楔によって、暗黙の了承のあの重みがとるにたらないものであることが露呈される(暗黙の了承がもたらしたもの、それは無限の後退によって自らが自らを貶めてしまうよう苦々しさ以外のいったいなんであったのだろうか)。その計略、その実践的な営みは、数々の笑いとともにそれを喜ばしいことの訪れとして受けとめる人々によって迎えられ、生み殖やされることだろう。