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[写真の写真:『触れえぬものの確からしさ』においての展示の在りようについて/FILM ROUND GAZETTE 1990年5月号:2]


 岩岸修一の写真を見るとき、いや、写真を見るとき、私たちはけっしてある写真を見ることはないだろう。いいかえれば、枠に収められ限定されたイメージとしての写真を見ることはできないだろう。
 それは、たんに、インスタレーションとして写真が展示されているからではなく、また、ほとんどの写真がナナメに(対角線が水平になるように)撮影され、フックでナナメに(正立するように)、あるいは床に、といったスタイルで展示されているからでもない。もちろん、そうした方法が、枠の中の画像のみを写真として見ることができない理由ではないということではなく、事実、その理由を構成してはいるのだが、方法のみに中心的な位置を与え、そこから展示を読んでいくといった試みは、結局のところ、展示によって構成された関係性と擦れ違うことになるだろう。確かに、会場を見回してみると、入り口近くにフックでナナメに掛けられたナナメの写真をはじまりとして、それが様々なヴァリュエーションによって展開され展示されているのだと見えないこともなく、また実際、彼の作業はそのように展開されたのかもしれないのだが、展示を一つの作業の結果としてのみ見ることで、線的な展開を思い描いてしまうことは、結果的に、方法を彼と結び付けることによってその方法の位置を直接的に高めると同時に、ある方法によって開かれた展示という場での彼にとっての関係性を決定的に閉ざしてしまうことに他なるまい。
 その関係性とは、固有の意味を担った幾つかの方法が、展覧会という場において重ね合わされることによって示される類いのものではむろんなく、幾つかの明示された方法の重なり合いにおいて意味の固有性がはじめて浮かび上がってくる、そうした展覧会の在りようのことである。彼の展示の中での方法とは、見る者との媒介項としてはたらくものではなく、ということは、むろん何かを表現するための関数でもない、つまり、はじめにイメージがあって…ということなのではなく、方法の中にイメージがあり、また、そうした方法の関係性の中で私たちははじめて展示されたイメージを見ることができる、そうした関連性そのものであり、イメージや展示行為と全く不可分なものである。例えば、展示の中で、最もシンプルな方法によって展示されていると思われるその入り口近くの写真さえも、複数枚同じ写真が一束となって掛けられていることにより、それがこの展示の原型とでも言えるものでありながら、出発点としての唯一のイメージであることを簡単に放棄しているが故に、私たちはそこから見はじめることはできないし、また、それ故に、私たちは展示という場の在りようにおいてイメージを見るのである。一束の(複数の)写真、前に振り子が吊された写真、ブラされた写真が写っている写真、床にちりばめられ重ねられた写真、その床にちりばめられ重ねられた写真が写っている写真、といった〈写真の写真〉が彼の方法そのものであり、〈写真の写真〉のどちらか一方があるイメージとして、あるいはある方法として優位性を持つことはなく、それ故に、見えるものと見ることが、あるいは、作ることと作られたものが切り離されることはない。だから、私たちはけっして彼の展示の中に写真を見ることはない。
 むろんそうした関係性は、しかし同時に、〈私〉が「写真する」ことにおいて写真を把握し関わっていくということに根拠を置き、それのみによって作業を展開することの限界を示してもいる。だが、それは、たんに限界とのみ呼びうる性質のものなのだろうか。その展開が展示そのものとして明示されているということにおいて、そのことは彼にとって充分意識化されているはずのことなのだから、それはむしろ、彼にとっての「写真する」ことの動機であり、条件でとでも言うべきものであるはずである。〈写真の写真〉をより複雑化させ、それを読むことの関数を隠蔽することで、そうした限界をのりこえうると思い込んでいるような「作品」が、文脈をなぞることだけに力を注ぎ、空転し、そうした動機がもはや失われていることが、条件の在りようなのだと錯覚しているのを、『触れえぬものの確からしさ』は、遠くから苦笑しているに違いない。