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[写真の規則11:写真という抽象物について/FILM ROUND GAZETTE 1990年4月号:4]


 写真を見るということ、そして写真について何らかの関心をさしむけるということは同義であり、写真(を見ること)について何かを考えるということは、そうした関係性について考えることにほかならない。写真について読み/語る営みは、それを自身が聞き/読み、言葉による分節化によって写真を解釈し了承することであると同時に、私たちが写真を見ることの動機そのものでもある。写真を読み/語る営みを言葉による写真の解釈と一義的に理解することで、写真を見ることから読み/語ることのみを排除しうるもののように考え、写真そのものを純粋に見るということを想定するならば、私たちは写真を見ることの動機そのものを失うことになる。そうした錯誤は、写真を言葉を越えた実体物として措定することに由来している。写真を読み/語ることが写真を見ることの動機そのものである以上、言葉を越えて写真を見るという営みを措定することは、じっさいには写真を客観的存在として措定することである。前回述べたとおり、写真を客観的存在として措定するならば、私たちが写真を見たときに感じる個々の印象の違いは見ることの多義性としてではなく、写真についての一義的な「完全な認識」を持ち合わせてはいないがゆえの、認識の程度のばらつきとしてしかとらえることができない。
 むろんそうした、写真を実体物として扱い、写真そのものをとらえることができるかのように装う言説は、写真を読み/語ることが、つねに自身がそれを聞き/読み、事後的に写真を意味の連鎖(解釈)として了承することにほかならないという不自由を、いっけんのりこえているかのように見えるがゆえに力をもつ。だが、私たちがつねに注意をはらわなければならないのは、そうした言説は、じっさいには写真を見ることの動機の多様性を安定した体系に回収することで隠蔽し、また、そのことを語っている自らの言葉そのものが言葉を越えた実体物として機能していることをも隠蔽しているということである。そうした言説が携える力は、必ずや、写真を見ることの条件としての関係性を閉ざし、写真の多様性を抑圧するものとして作用する。すなわち、そのような言説は、いかに写真本来のことがらについて語っているように見えようとも、写真を多様性へと開いていく力となることはなく、実際には逆に、超越的な実体としての写真へと人を動かす力として作用するのみである。
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 写真を実体物として扱うことが、自らが写真を見る動機を消してしまうことと同義であるにもかかわらず、そうした言説について普段私たちが何の不可解さも感じない理由はどこにあるのだろう。その理由はさして込み入ってはいない。写真を、あたかも実体物のようにとらえることが何ら不自然ではないばかりか、じつに容易だからである。現実の忠実な写しとしての写真は、まさにそれが「現実の」−「忠実な」−「写し」の定着であることによって、それまでにはなかったリアリティを持っている。写真とは、そうしたリアリティの不可避的な変容そのもの、あるいは、「現実」や「写し」という意味の不可逆的な変容そのものであるといってもよい。だが、そうした変容の質そのものがまさしく写真であるということを忘れるとき、写真は、たんなる現実の断面、たんなるあるものの写しとしてのみ実体化して把握されるだろう。例えば、単純にいえば、鏡もまた現実の相似形を映しだすが、そこに映っている像が鏡そのものであるなどとは誰も思わず、そうした性質を鏡として皆がとらえているのは、主体の位置・関心に応じて像もまた移動するからである。鏡の実体とはそうした機能の特質であり、また、そうした抽象性であることは誰もが疑わないだろう。見るという関心の在りようが示されないかぎり、鏡の機能が保留されることは自明のことである。だが写真は、たとえ見られなくても、そこに像がある。その意味で写真とは、動いたり、また関心に応じて消えたりすることもなく、ただそれが、現実の忠実な写しであるという点を除けば、まさしく事物と同じように実体的に取り扱うことが可能なのである。写真の機能を事後的に考察するとき、実体物としての側面のみがその対象となる。写真の抽象性は捨てられ、定着された像のみが写真と名付けられ実体として語られることになる。そして、そこに像がある以上、そうした言説は何ら不自然なものとして受けとられることはないだろう。しかし、くりかえしになるが、実体化された写真について語ることは、像という実体を前提にしているにもかかわらず、像という実体を語ることではありえないという転倒をすでに含みこんでいるがゆえに、けっきょくは素朴な意味においてもどこにも在りはしない写真という実体物を想定し、それをめぐることを余儀なくされる。

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 写真についてそれを定義することは、じつに容易である。光学装置によって投影された像を、化学的過程によって定着したもの、それが写真である(むろん像の投影・定着は、光学装置・科学的過程によってのみ可能ではないが、そのような幅を無際限に想定することで、それが写真という分類項に含まれるか否かという判定にかかわりあうのは、ここでの大きな問題ではない)。だが、その定義の単純さとは裏腹に、そうした定義に付随する側面は、写真自体から読みとることは基本的には不可能である。私たちは、それを経験的に写真として知覚しているにすぎない。あるいはそれに写真としか呼びようのない特質を見い出だすことによって、それを写真として見ているのである(写真術の発明から今にいたるまでの、記録写真か芸術写真かといった問いに代表される不実な論議は、その曖昧さをよく特徴づけている)。すなわち写真とは、その技術としての定義の単純さゆえに、その形成の過程を厳密にたどるほどに他の分類項を生みだし、より曖昧になってしまう何かであり、またその技術としての定義を盾に見ようとしても、そうした視点から見い出だされる痕跡がそれが写真であることを何ら保証することはない抽象物であるといえよう。
 くりかえしになるが、写真を抽象物として考察することは、写真を見るということが、写真について何らかの関心をさしむけるということであるという関係性の多義的なありようについて考えることにほかならない。写真は、言葉によって事後的に把握することしかできないにもかかわらず、事後的には語りえない構造をつねに表出してしまうような抽象性そのものであり、分類項としての一義的な写真のありようを措定するや否や、その特質が消されてしまうような両義性をもっている。そうした関係性のうえに浮かび上がってくる両義性について考えようとするなら、私たちは写真についての問いの形にこそ最も注意をはらうべきであろう。すなわち、「写真とは何か」といったいっけん本質的にみえながら、一義的なありように向かって内在性を組織し空転させるような類いの問いをたえまなく迂回しつつ、なおかつ写真について問いかけることが重要に思われる。写真とは、「写真とは何か」とけっして問いかけることのできないような、何かなのだから。