こうしたことを踏まえたうえで、ここで、現在ではごくありふれた経験、写真を見るということを、もう一度ふりかえってみよう。
私たちは写真を見、そして様々なことを思いうかべる。そのとき思いうかべることがらはむろん人それぞれであり、その写真を見るすべての人がまったく同一のことがらを思いうかべることを想定することは不可能であろう。だが同時に、その写真を見る他の人が違ったことがらを思いうかべていることを認めながらも、すなわち他の人にとってはその写真がまったく別の在り方をしている可能性を認めながらも、他の人が同一の写真を見てはいないのだと、つまり他の人が各人各様に異なった写真を見ているのだと想定することも困難である(そうである可能性を考えることはできるが、そう確信することはできないだろう)。
写真を見て、何かを思いうかべる。このことによって私たちは写真とのある関係を取り結んでいる。私たちは、何かを思いうかべることなしに写真を見ているという感覚を持つことはないだろうし、写真を見ることとはまさしくそれについての何かを想起することであろう。その関係こそが、写真を見るということの条件でもあり、また、そうした関係性をぬきにして写真が在ることを、つまり写真を見るということを想定することはできないはずである。
では、その関係性とはどういう性質のものだろうか。それは、たんに、見るという営みが、見る主体に所属し、見る主体によって任意に構成される世界によって写真が自在に判断されうるということにおいて成立している関係ではなく、また、固定的なあるいは恣意的な体系としての世界に、写真を見ることで見る主体が参入することのみにおいて成立している関係でもないはずである。私たちはこれについて、写真を見るという営みが、それが写真の何かに向けての興味であり関心であることではじめて、写真が在るということ、そしてそれを見る私が在るということを具体的な営みとして把握することが可能になるという性質のものであるという観点から考察すべきであろう。
すなわち、写真を見るという営みは、見る主体が写真についての何らかの興味や関心をさしむけることで、自己の内部にその写真を見ることについての体系をつくりあげることであると同時に、自己の外側にその写真が在るのだということを確信することによって条件づけられているのだと言えるだろう。むろん、ここでの写真が在るという確信は、実体的に写真が在ったのだということを自己の関心によって発見することではない。逆に、それは、自己の外側に写真が在るのだという確信によってのみ、私たちはその写真についてそれを見ることの契機を把握しそれについての関心や興味をさしむけることができるという、見ることの条件を意味している(その確信をぬきにした場合、見ることの契機を把握することについての問うことの意味自体が消滅してしまう)。
このことを考慮したうえでのみ、写真を見るという営みは、解釈する自己(主体)にも、また超越的なものを前提とした客観世界にも、あらかじめ保障され回収されることのない、そのつど固有のあらわれ方をする、<いま、ここ>での一回性としての見る主体と写真との関係としてとらえることができるであろう。むろんこれは、見る主体の内部で写真を自在に体系に収めることができる可能性も、また客観として存在する写真を見る主体の認識に応じて解釈しうる可能性もまったく意味してはない。写真について何らかの関心をさしむけることがまさしく、私にとって<いま、ここ>に写真が在るという確信においてのみ成立するという、写真を見ることのこの条件においてのみ、私たちは見る主体ー写真(主観−客観)という図式において写真を見ることを考えるのとは異なった位相で、私という主観から、写真の独自性といった実体的な概念をあらかじめ措定することなしに、見ることそれ自体において写真そのものを把握することが可能となるだろう。ここで見いだされるであろう写真の多様性とは、むろん、私という主観の認識体系と客観としての認識体系とのあいだに、あるいは個々の認識体系の違いにおいて生じる程度としての差異に依存するものではまったくなく、主観の認識それ自体のさなかでその写真そのものとの固有な関係性においてとらえられるものである。そしてそれは、写真が在りそれを見、解釈するといった図式で理解されていた見ることの営みを、表現という地平での見ることの可能性へと、超越的な中心によって構築される体系に依存することなしに、切り開いていく展望につながるように思える。