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[写真の規則9:写真の〈多様性〉について/FILM ROUND GAZETTE 1990年1月号:5]


 写真を見る、と私たちは言う。見る、と言ったとき私たちは、あたかも写真がそこに安定して存在しているようにみなしてしまっている。だが、写真はあらかじめそこにわけではない。写真を読み/語り、かつ、その言葉を自らが聞き/読んで理解するという営みにおいて私たちが写真をとらえることによって、実体的なものとして写真を把握することが可能になっているにすぎない。あるいは、具体的に写真が存在することを前提にすることで、私たちは写真を実体的に語っているにすぎないのである。
 私はここまで、そのような営みを保障し可能にしている前提を写真的イメージあるいは写真的なるものとして(写真の規則7,8)、写真的なるものを前提とした規則を吊り支えている体系の中心を超越的な根拠として(写真の規則4,5,6)述べてきた。それは、ひとことで言えば、写真的なるものを前提として写真の多様な在り方を語る言説は、じっさいには写真の解釈の多様性を語っているにすぎず、そのような言説によって結果的に生じる規則・体系の超越的な根拠によって写真が実体的に把握されることにより、あらゆる差異が一義的なものとして回収される、ということについてである。
 写真が無限の在りようを潜在的に含み、それについての無限の解釈の可能性をもつという前提に保障されている言説による写真の多様性とは、じつは無限に未来に延期されていく、可能性としての多様性にすぎない。そこには、私たちの営みがつねに<いま、ここ>において有限であるという認識が欠落している。写真を読み/語り、かつ、その言葉を聞き/読んで理解するという営みは、そのような有限性を無視することによって成立している。あるいは、そのような有限性への認識の欠落が、読み/語ることと聞き/読むことの間にある「遅れ」を隠蔽しているのである。
 私たちは写真を見、そして読み/語る。それは、<いま、ここ>での一回性としての写真との関係である。だが、私たちの営みがつねに<いま、ここ>において有限であるという認識を欠落しつつ、その言葉を自らが聞き/読むとき、その関係性は暗黙のうちに変質する。聞き/読むときの自己の意味が、読み/語るときのそれとはちがっているのである。写真を読み/語る。そしてそれを聞き/読むとき、私たちはその間にある「遅れ」のなかで自らの言葉を理解し・解釈し、そして回収する。その意味での聞き/読む自己とは、<いま、ここ>での一回性としての写真との関係性をもつ自己ではない。一般性のなかに解釈を溶解させる、共同体的な客観性にもとずいた一般化された自己にすぎない。
 いいかえれば、<いま、ここ>での営みの有限性に無自覚な言説が、写真の多様性を無際限としての未来に保障されつつ語るとき、<いま、ここ>という断面において露呈しているものが写真的なるものであり、超越的な根拠なのである。その位相でいかに言葉を用いようとも、その言葉は、写真的なるものを写真的イメージをより強固な共同体的な前提として補強し、超越的な根拠としての中心を無意識のうちに生みだしていくにすぎない。言葉の一回性としての写真との関係が、写真的なるものを前提とした超越的な根拠としての中心との関係にすりかえられることにより、その言葉は薄められた所在不明のものとして機能する。
 いかなる言葉もこうしたことに無自覚であるあるならば、その言説は写真そのものを語るという身振りにもかかわらず、じつは写真そのものを覆い隠し、共同体的な認識の体系にそれを写真的なるものとして回収するだろう。そのような体系における言葉とは、じっさいには写真の多様性ではなく、写真をとおして何かを語る多様な在り方を語っているにすぎない。写真的なるものを結果的に確認する類いの言葉にすぎないのである。私はなにも特別な出来事について述べているわけではない。これは、ありふれた、写真を見る私たちがいたるところで直面している出来事なのである。写真から「現実世界」の在りようを見ようと、「内面」を見ようと、この写真と言葉の一回性の関係の認識が欠落している限りにおいて、私たちは写真そのものを<見て>はいない。それらは、写真に付随する程度の差異を問題にしているにすぎない。このことは、写真の歴史をふりかえって問いかけてみればすぐにわかることであろう。私たちが馴染んでいる写真の歴史とは、じつは写真をとおして何かを見てきた歴史にすぎなかったのではと。それは、実体的な概念が形容詞的に入れ替ってきた、たんなる写真的なるものの歴史にすぎなかったのではと。
 写真そのものを見ること、それは、とりもなおさず写真をその一回性としての関係において見るということである。写真を見、そして読み/語る。その瞬間において、写真はなんら安定した具体物ではない。写真というきわめて抽象的なものが、聞き/読むという営みにより実体的な概念と結び付つくとき、あたかもそこに安定してようにみなされてしまうにすぎない。そこでは、一回性としての写真と言葉の関係は消されてしまっている。実体的な概念により把握される写真とは、じっさいには程度の差異の多様性のみをもつ、一義的なものにすぎない。だが、そのような解釈の多様性を待つまでもなく、<いま、ここ>という断面において、その有限性において、写真は多様性を含んでいるはずである。
 私たちは、ある超越的な根拠としての中心による体系の規則によって写真を見ているわけではない。自らの言葉を聞き/読むことによって、そのような体系・規則を結果的に構築しているにすぎない。そのことが、写真そのものを多様性のなかで<見る>ことの不可能性を余儀なくしているのである。
 写真をそこにあらかじめものとして把握することなしに、写真を見ること。それは、とりもなおさず写真を抽象物として多様性のなかで<見る>ことに他ならない。その可能性への問いかけは、見るという営みの反転であると同時に、<いま、ここ>で写真を見るという営みの有限性に含まれた写真の多様性に向けての考察となるだろう。次回からの連載では、そのような写真の多様性を巡っての考察を述べていきたい。