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「撮る主体」をめぐって:田口芳正『反覆』/deja-vu 901010 No2:?]


 田口芳正の展示は、それを見る度ごとに、77年のはじめての個展を開いて以来彼が繰り返してきた作業が何であったのかを考えさせる。
 むろん、かつての作品と現在の作品のあいだを考えることは、何も田口氏の作品を考えるときのみならず、どのような作品を見るときにも不可避的なものである。私たちは、かつての作品の展開を考え、そして現在の作品を見ることで、そこでなされていることを思考する契機を引き出す。かつての作品と現在の作品のあいだを考えることとは、もちろん、そこでの〈重なり〉と〈隔たり〉をどのように捉えるかにかかっている。田口氏の作品において特筆すべきことは、〈重なり〉を写真家が築いたアイデンティティーとして捉え、〈隔たり〉をそれに対しての変化として捉えることで、写真家のしかるべき現位置を考えるといった思考の契機をそこから引き出すことがきわめて困難なことである。言い換えれば、彼の作品においてそのつど見い出される〈隔たり〉とは、かつての作品との〈重なり〉に対立することでそれを保障する類いのものではなく、〈隔たり〉それ自体が〈重なり〉が収束する地点を絞りこんでいく類いのものだということである。その意味で、私たちは田口氏の展示を見る度に、彼がはじめて写真を発表してからこれまで、繰り返し見据えそして明確にしてきた〈重なり〉が何であったのかという問いに直面せざるをえない。
 田口氏の作品から一貫して明らかに見てとれるのは、ある一定の規則にしたがって撮影した写真を、ある一定の規則にしたがって並べることで作品を構成する、という制作の方法である。むろん、77年の『八月の霧』から『地図』『地図の方へ』『軌跡をなぞる』『定点移動』などのシリーズを経て今日の『反覆』シリーズに至るまでの作品には、それぞれに用いられた方法のあいだで読みとれる差異が存在している。だが私たちは、その差異をたんにある写真家がたどった「展開」として線状的な時間軸に置き換えるべきではない。注目すべきことは、むしろそうした意味での「展開」が執拗に拒まれていることであり、彼の制作の方法が、しかるべき作品を作るために繰り返されたわけではなく、また写真家のアイデンティティーを強調するために繰り返されたわけでもなく、ある問いを繰り返し問いかけるためにのみ繰り返されているということである。つまり、田口氏の作品における差異とは、方法的なことから相対的に見い出されるのものではなく、方法が方法化された位相においてはじめて見い出だされる内在的なものとして読まれるべきものである。
 では、田口氏が繰り返し問い、見据え、絞り込んできた〈重なり〉とは何か。それは、ひとことで言うならば“撮る主体”をめぐっての問い、すなわち、主観/客観・私=写真家/世界=対象といった二元論において写真が機能することの超克をめぐっての問いであるにちがいない。彼が自らの方法を少しづつずらしながら繰り返し試みてきたのは、そうした二元論を超える表現の場の創出であるはずである。写真を撮る行為のいわば透明な反映として構成され、見ることを対象化することが目論まれた『八月の霧』、対象/写真から見えるものを撮る行為/見る行為という見ることにおいて思考することを試みた『地図』『地図の方へ』シリーズ、そしてそうした試み自体をさらに複合化することで抽象化された位相において、見えるもの/見ることの関係を撮ることの経験の内で考えようとする『軌跡をなぞる』『定点移動』『反覆』シリーズと、とりあえず位置付けてみることもできるだろう、いっけんゆるやかに移行する彼の一連の作業における微妙な差異は、それが写真という認識論的な場をめぐって引き出されたものと捉えたときはじめて、田口芳正の経験的な場における反復から生みだされたものとして浮かび上がってくる。
 しかし、そう捉えたとたん、私たちは同時に別の位相での二元論に出会うことになる。それは、概念と写真行為といった二元性から生じる主観/客観・見えるもの/見ることといった二項対立以前に在る、写真行為に埋まっているとでもいう身体化された二元性から生じるものである。そうした二元論は、一方で方法を制作の過程を保障するものとして機能させつつ、同時に他方で方法を方法化することによってそうした制作の過程そのものを解体しようとする運動性、つまり、自らが選びとると同時に拘束される写真表現の作用を、経験的な場において受容することと回避することのあいだに生じる運動性において見い出される。田口氏が認識論的な問題を経験的な場において問うことで繰り返し体現してきた〈重なり〉とは、私=写真家/世界=対象といった二元論の超克の試みというよりも、じつはそうした運動性における二元論のたえまない反転の反復にほかならないのではないだろうか。そして、こうした視点から彼の作業を考えるならば、今年八月に都内の二ヵ所のギャラリーで展示された『反覆』で私たちが見ることは、そうした反転の果てにおいて徹底して不在化された見えるもの/見ることの関係や撮ることの経験であり、彼自身の作業を支えているはずの制作の過程自体の見事なまでの引き裂き、言い換えれば経験的な場の引き裂きの露呈にほかならないだろう。
 写真表現を解釈する様々な二項対立をどのように退けてみても、表現の経験的な場におけるこのような二元論は根底的かつ不可避的なものとして在る。それを私たちはどのように考えるべきか。そのことを考えるときつねに立ち戻るべき視座は、田口氏の作業において照らしだされた地点であるように思える。